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今際の際での死神との会話

まずはじめに

「今際(いまわ)」とは、「今は限り」の略となり、旧仮名は「いまは」となります。 「今は限り」とは、「今はもうこれ限り」、つまり、「死に際」や「臨終」を意味します。

今回は、この今際の際での思考がとても重要であることをお伝えできればと思います。といいますのは、よくヨーガの先生から「死に際」で何を考えて死んでいくのかがとても大切だと教えられていましたので。

「こんな人生のはずではなかったのに」と考えながら息を引き取るのか?それとも、「良き人生であった、いろいろ世話になった、ありがとう」とするのかが、なぜ、重要であるのかは、前回の「悪夢を成就して幸せな夢」をお読みくださったならばわかると思います。

いくら「死に際」が重要であっても、その「死に際」だけ感謝して息を引き取ることは難しいと言えます。ですので、普段からの積み重ねが「今際の際」に集約されると言えるのです。

今際の際での死神との会話

■カタ・ウパニシャッド

死神ヤーマとナチケータスとの会話

『カタ・ウパニシャッド』は、聖仙ウッダーラカ・アールニの息子ナチケータスと死神ヤーマとの問答が描かれるお話しとして奥義を私たちに伝えてくれています。

一番有名なお話しは、人間を馬車にたとえて解説している人間馬車説ですが、今回取り上げるお話しは、亡くなったナチケータスが「今際の際」にて死に神に対して、三番目の願い事として、「死後は存在しないというような疑問が生じてくるのだが、本当のことを知りたい」と死神に願うが、死神は困ってしまい「汝が思う富や長寿といった望みなら叶えてやろう」と尻込みするのだが

死んでいる人間が死後のことを死神に訊ねるというところが面白い…

死んでいる人間に失う物は何もないことからか?ナチケータスは、それらの物は儚くも消え去る物であるので、不滅にして永遠なる境地を、そして、肉体の死後の究極なる世界について教えていただきたい、と食い下がられたので、渋々、死神が奥義を伝えるお話しになります。

■ナチケータスの第一の願い

死神様、我が父ゴータマが私に対し、懸念することなく、落ち着いた気持ちを持ち、怒りを静め、私が御身から解放され家に戻る時には、私を父が認めてくださり、快く迎えてくださるようにしてください。これが三つの願いの内の私の第一の願いです。

『カタ・ウパニシャッド』第一章第十節

父親との関係が悪化したままだったことがナチケータス少年の心残りであったので、第一の願いとして、父親との改善を第一の願いとしたのには、私たちの肉体としての出自は父と母であることから、たとえ、父親が狡猾なことをしたことで腹を立てた自分の正しさはあるにせよ、出自である父母とはうまくやりなさいという教えとなります。

つまり、両親との関係において、「ほめてもらっていない」とか「支えてもらっていない」や「評価されていない」といったことはすべて解決してから第二の願いとなることを暗に示唆しています。

■ナチケータスの第二の願い

死神様、御身は天界へと導いてくれる火祭りをご存知なはずです。私は御身を篤く信ずる故に、どうかその護摩供養の仕方を教えてください。というのも、天界の住人たちは(神々としての)長き生をその護摩供養により得ているからです。以上が私の第二の願いです。

『カタ・ウパニシャッド』第一章第十三節

死神は、ここまでは機嫌良く満足しつつ護摩供養に関する三種の知識を持って祭式を執行することで生死を超越すると教えました。

■ナチケータスの第三の願い

人が死ぬ時、人によってはその者はその後も存在すると言い、他の人は死後は存在しないというような疑問が生じています。御身の教えを受けて、このことについて私は知りたいと思います。これが第三の願いです。

『カタ・ウパニシャッド』第一章第二十節

そのことについては、かつて、神々も疑問に思っていた。その問題は非常に微妙なものであり、まことに理解しがたいものである。それゆえに、ナチケータスよ、他の願いを選びなさい。頼むから我に対してそのような願いを投げかけずに、我を解放してもらいたい。

『カタ・ウパニシャッド』第一章第二十一節

ナチケータスの願いとは、地獄も天国も越えたところがあるはずだから教えてください、といったところでしょう。しかし、それを教えたならば、死神の職を失うこととなるので都合が悪いので、あれこれと、つまり、富や長寿、広大な領土を選べと諭すが、ナチケータスは、それらの物はすべて儚くも消え去る物だとして頑なに拒みます。

この後、第一章終わりから第六章にかけて、死神ヤーマはナチケータスに奥義を伝授することになります。正直、これらのことは字面を読んだとしてもわからないし、私なりの解説をしたとしても余計に混乱するだけなのでやめておきます。

■なぜ、ナチケータスは死神に騙されなかったのか?

「なぜ、ナチケータスは死神に騙されなかったのか?」について、絞って解説することがここでは重要だと思っています。

まずは、なぜなのか?について、お考えください。自分の今の立場ならば、死神に対してどのような会話となったのか?三つの願いとはどのようなものとなったのかお調べください。

死神に対してどのような「反応」だったのかに関しては、良い悪いはここでは問いません。まだ、死んではいないので今死んだらどうなるのかのシミュレーションに過ぎません。現に、ヨーガの先生は、棺桶箱を買ってそこに入って「今際の際」で何を想うか瞑想しなさいと私たちに言っていたぐらいですから。

おそらくですが、ナチケータスは、護摩供養祭に際して、父親が牛乳をすでに出さない雌牛を布施にしたことに腹は立てていたけれど、父親ではなくその腹を立てている自分を何とかしたいと想っていたことではないでしょうか?

「今際の際」にて、あんな汚いことをする息子に生まれた自分は恥だと想っていたならば、死神の鎌に切られ「輪廻転生」という廻る輪におさまっていたことでしょう。

■今際の際とは生きている今この瞬間のこと

今回で何をお伝えしたいのかがもうおわかりのことと思います。「今際の際」だけ、その瞬間だけに自分の想いを死に際にふさわしいものとすることには無理があるということ、そして、普段において、瞬間瞬間に、どのような考えで生きているのか?何を想って生きているのか?誰かを恨んでいるのか?誰かの支えで生きられていることに感謝をしているのか?がとても大切だということだと思います。

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