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「宇宙の起源について」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.1.2)


はじめに

宇宙の起源について、インド思想において、もしくは、インド哲学では、ユガと呼ばれている循環する四つの時期があると考えられているのですが

そのすべてのユガを合わせたものを大ユガと呼び、年数だと432万年となっていて、千の大ユガをカルパ(劫)となり、宇宙観としては、宇宙の生命は41億年から82億年のサイクルで創造し破壊されると考えられているようです。
ウパニシャッドの講義中にそういった話が出たとき、生徒仲間が「先生、期の終わりに破壊されて大帰滅と共にブラーフマンへと戻れるのならば、努力して解脱を目指さなくても戻れるのですか?」と質問していました。

そのとき、私は、ぜひとも、大帰滅の前には戻りたいものだと思ったことを記憶しています。

シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』第一篇第一章二節

表題2 宇宙の起源などについて(この世の原因などについて)

反論者:ブラーフマンは熟考されるべきものだと言われています。そのブラーフマンの定義は何でしょうか?

ヴェーダンティン:それゆえ、尊い格言家は言うのです。

2節 そこからここ(宇宙)の誕生などが、(生じてきたのが)ブラーフマンである。

Janmadiは以下のように分類できます。Janma(誕生)がadi(第一)であるもの。janmddiというフレーズには、提示された主題がその属性(*37)とともに理解されるバフブリーヒ複合語の種類(class)がある。

(*37)attributes:「pitdmbaram pasya-see the man with a yellow cloth(黄色い布を持つ男を見なさい)」では、男は黄色い布とともに知られている。しかし、「drstasarnudram inaya-bring the man who saw the sea(海を見た男を連れて来なさい)」では、男だけを連れて来ることはできるが、修飾句は連れて来られない。

この複合語は、誕生、継続、消滅を意味する。最初に誕生が述べられているのは、ヴェーダのテキストや物事の本質の記述と一致している。ヴェーダの主張は次のようなものである。「これらの存在者が誕生するもの」(Tai.III.i)、そこでは起源、継続、消滅が順序立てて明らかにされている。

物事の性質として、誕生によって存在するようになったものは、継続と崩壊を持ちうる。asya(これの)の構成語として出てくるidam(これ)という語は、知覚などによって即座に提示される実体(すなわち宇宙)を示している。そして、その中の第6格末尾(すなわち「の(of)」)は、その実体と誕生などとの関係を示すためのものである。

yatah(どこから)という単語は原因を示している。そして、「それはブラーフマンである」という句を最後に加えて、文を完成させなければならない。(つまり、格言全体の意味は)以下の通りである。全知全能の源はブラーフマンに違いなく、そこからこの宇宙の誕生、継続、消滅が起こり、それは名前と形を通して現れ、多様な行為者と経験と結びつき、行為と結果の支えとなり、空間、時間、因果をうまく調整し、その創造の本性に関するあらゆる考えを覆す。

ここでは、誕生、継続、消滅のみが言及されている。なぜなら、物事が受け継ぐ他の変化もその(*38)中に含まれるからである。

(*38)them: その他の修正とは 成長、変容、腐敗(decay/崩壊)である。成長と変容は新しい誕生(または進化)の一形態であり、腐敗は死の一形態である。

もしヤスカが「それは起源し、存在し、成長する」などの言葉で挙げた6つの変化が(ここで)受け入れられていたとしたら、宇宙の起源、存在、破壊が、第一の源(ブラーフマン)から言及されていないのではないかという疑念が生じるかもしれないが、これらの変化は宇宙(*39)の継続中にのみ可能なのである。この疑念が生じないように、ブラーフマンから起こる起源と、それ自身の中で起こる継続と融合が言及されている。

(*39)universe:ヤスカの『ニルクタ』では、誕生、継続、成長、変容、腐敗、死の6種類の変化について言及している。しかし、この格言は、他の哲学に巻き込まれないように、ウパニシャッドで言及された3つを列挙している。

神を除けば、すでに述べた資格を持っている宇宙は、説明されているように、その起源などを他の要因 である、例えば、無感覚であるプラダーナ(根本原質)、原子、非存在、存在、世俗的な条件下にある魂(ヒランヤガルバ)などから生じるとは考えられない。この宇宙では、(生産物を望む)人々は特定の空間、時間、因果関係(*40)に依存しなければならないからである。

(*40)causation:自然主義者たちは、あるものがそれ自体で起源を持つと主張することはできない。なぜなら、それは「起源」という言葉の誤った使い方だからであり、それは経験と矛盾するからである。

神を原因として支持する人々(ナイヤイカ派など)は、移ろいゆく(転生する)魂と区別される神の存在など(*42)を立証するために、まさにこの推論だけ(*41)に頼っている。

(*41)alone:先の文章で示された推論「他のいかなる要因も別として」

(*42)etc.:全知全能など。

反論:この推論はまさに、「何から来たか」などで始まる格言によって示されているのではないですか?

ヴェーダンティン:いいえ。なぜなら、格言は、ウパニシャッドの言葉の花をつなぎ合わせるためのものであり、これらの格言の中で言及され論じられているのは、まさにウパニシャッドの文章(sentences)なのです。ブラーフマンの実現(realization/認識・悟り)は、(ヴェーダの)テキストとその意味(*44)を熟考することから生じる確固たる確信(*43) から生じるのであって、推論などの他の知識手段から生じるのではない。

(*43)conviction:知るべきことの真の意味と可能性の確認。

(*44)meanings': 適切に熟考すれば、ウパニシャッドのテキストはブラーフマンを指し示していることがわかる。

しかし、世界の起源などについて語るウパニシャッドのテキストがある場合、ウパニシャッドのテキストに反しない推論であっても、それがこれらのテキストを補強する知識の有効な手段として採用される限り、否定されることはない。というのも、ウパニシャッドはそれ自体、推論を助けとして受け入れているからである。例えば、「(自己は)聞くべきものであり、考察(reflected on*45)すべきものである」(Br.Ⅱ.ⅳ.5)

(*45)on:その可能性は推論によって確立される。

そして、「よく知り、聡明な人間は、ガンダーラの国に到達することができる」という文章があるが、同様に、この世においても、師を持つ者は知識(*46)を得る」(Ch. VI. xiv. 2)という文章は、ヴェーダのテキストが人間の知性に依拠していることを示している。

(*46)knowledge:ガンダーラの国から強盗に連れ去られた男が、目を覆われ、手足を縛られたまま森の中に置き去りにされた。そこへ通りすがりの者が憐れんで彼を解放し、ガンダーラへの道を教える。もし彼がその教えを理解するのに十分な知性(pattdita)を持ち、熟考能力を駆使して誤った道を歩まないようにすれば、彼はガンダーラに到達することができる。森のようなこの世界で無智の下にある人間の場合も同様である。ある教師が彼に、「あなたはブラーフマンです」と言う。もし、それを理解するのに十分な知性があり、理性を十分に働かせれば、彼はブラーフマンに到達する。

ブラーフマンについて熟考する限り、宗教的な義務について熟考する場合のように、直接のテキストや指示記号などがブラーフマンの有効な知識を得る唯一の手段ではない。しかし、前者の場合は、ヴェーダのテキスト、個人的な経験(*47)などが、可能な限り有効な手段である。なぜなら、ブラーフマンの知識は経験の中で頂点に達し、実在する実体に関係するからである。

(*47)experience:特定の聖句の意味は、直接的な主張、指示的な印、構文的なつながり、文脈、位置、および指定の助けを借りて決定されなければならない。上記の6つの手段は、推論などと同様に、ブラーフマンに関するヴェーダの聖句の意味を決定し、各試練(test/試験)の個々の能力を通じて、ブラーフマンの知識の性質を持つ特定の精神状態を生じさせる。その状態は再び無智を破壊し、ブラーフマンの啓示において頂点に達する。

行わなければならない儀式などの場合、直接的な経験には依存しない(儀式などはまだ未来の胎内にある)ので、ここでは直接的なテキストなどが唯一権威を持つ。その上、行うべき行為は人間の努力によってそのようになる。世俗的な活動やヴェーダ的な活動は、やってもやらなくてもいいし、別の方法で対処してもいい。例えば、人は歩いたり、乗ったり、別の方法で進んだり、まったく動かなくてもいい。同様に、(このような箇所がある)「アティラートラと呼ばれる犠牲祭では、ショーダシン杯と呼ばれる(ソーマ酒の入った)容器が取り上げられる」、「アティラートラの犠牲祭では、ショーダシン杯は取り上げられない」(Tai.S. VI. vi.2.4)

「(アグニホートラの犠牲祭では)奉納は、日の出前に捧げられる」、そして、「奉納は、日の出後に捧げられる」。

これらの命令と禁止は、代替案、一般規則、例外と同様に、ここ(儀式の文脈)で意味を持つ。しかし、物事は、そのような種類のものであるとか、そのような種類のものでないとか、存在するものであるとか、存在しないものであるとかを(同時に)多様に判断することはできない。

選択肢は人間の概念(notions)に依存するのに対し、事物の真の性質に関する有効な知識は人間の概念に依存しない。では何に依存しているのか?それは物そのものに依存する。同じ切り株に対して、「これは切り株である、あるいは人間である、あるいは他の何かである」という形の認識は、有効な知識とはなりえないからである。このような場合、「これは人間である、あるいは他の何かである」という形の認識は誤りであるが、「これは確かに切り株である」という認識は有効な知識である。

というのも、これはその物自体に対応しているからである。このように、現存する(existing)事物に関する知識の有効性は、その事物自体によって決定される。ということは、ブラーフマンの知識もまた、現存する現実に関わるものであるから、それ自体によって決定されなければならない。なぜなら、それは現存する実在に関係しているからである。

反論:もしブラーフマンが現存する実在であるならば、それは他の有効な知識手段の対象でなければならない。だから、(ブラーフマンの知識のために)ウパニシャッドのテクストについてのいかなる熟考も無意味になる。

ヴェーダンティン:そうではありません。なぜなら、ブラーフマンと何かとの関係は、感覚的知覚の範囲外であるため、把握することができないからです。感覚は自然に対象を理解するのであって、ブラーフマンを理解するのではありません。もしブラフマンが感覚知覚の対象であったなら、知識は「この産物はブラーフマン(*49)と関係がある(すなわち、ブーラフマンによって生み出された)」という形になっていただろう。また、単なる結果(すなわち宇宙)が認識されたとしても、それが(その原因である)ブラーフマンと関係があるのか、それとも他の何かと関係があるのかを確かめることはできない。それゆえ、「そこから来たもの」などという格言は、推論を示すためのものではない。

(*49)Brahman: 反論相手の推論は、「結果であるものは何でもブラーフマンの産物である」か「結果であるものには何でも原因がある」のどちらかであり、そのどちらかからブラーフマンの存在に到達するかもしれない。しかし、ブラーフマンに関しては、最初の記述に暗示されているような一般的な考え方は不可能である。なぜなら、ブラーフマンは知覚できないからである。

それでは何のために?

ウパニシャッドのテキストを提示するためである。

この格言によって言及されようとしているウパニシャッド聖典とは、いったいどのようなものなのでしょうか?

(これである): ヴァルナのよく知られた息子であるブルグが、父ヴァルナに「敬愛する先生、私にブラーフマンを教えてください」と願い出たところから始まり、タイッティリヤ・ウパニシャッドは、「これらの生きとして生けるものは、すべてそこから生まれ、生まれた後はこれによって生き、向かっていくものであり、融合していくものであることを知りなさい」(Tai. III. i)

そして、質問の答えはこうだ。「これらの存在はすべて至福に由来し、生まれた後は至福によって生き、至福に向かって進み、至福の中に溶け込む」(Tai.III.vi)(この関連で)同じクラスの他のテキスト(*60)も引用されるべきであり、それらは本質的に永遠であり、純粋であり、自由であり、本質的に全知全能である原因について述べている。

(*60)texts: 例えば、Mu. I. 10、Br. III. 28などである。最初の格言は、ブラーフマンについての熟考を、有能な人が引き受けるべき仕事(task/課題)として提示しており、その人のために2番目の格言はブラーフマンの定義を提示している。これが格言の目的であることは、『タイッティリヤ・ウパニシャッド』の順序から明らかであり、ブルグは探求者として登場し、彼には宇宙の起源などの原因としてブラーフマンが提示される。これはブラーフマンのタタスタ(tatastha)定義であり、言及された特性は定義されたものの本質的な部分ではないが、当分の間は他のものと区別される。スワルーパの定義は、「ブラーフマンは真理であり、知識であり、知識であり、無限である」 (Tai. II. i)ここで真理などという言葉は、一般的には経験的な真理などを意味しているが、ここでは言葉のあや(a figure/隠喩)によって、真理そのものである超越的な実在を暗示している。

最後に

題名から期待していた内容とは違っていたかもしれませんが

まだまだメインメニューまでは遠いので、気長にお付き合いいただければと思います。

重要だと思われる内容だけをピックアップしてという選択もあるのですが、さすがにシャンカラ師の註解書なので、さりげなく、これから論じられる課題についての準備として述べられている箇所も見受けられると思われます。

ボチボチと時間を作って進めてまいりますので、更新をお待ちください!

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