はじめに
シャンカラ師による『ウパデーシャ・サーハスリー』のⅡ散文篇第一章「弟子を悟られる方法」と第二章「理解」に、教師が弟子にどのように教えるのかについての問答が説かれています。
最終的な弟子の理解に対しての答えを以下のように説いて閉じています。
以前に、「誰しも熟眠時に神様の元へ還っている?」にて、覚醒状態・夢眠状態・熟眠状態について記述しましたが、起きている覚醒状態でも熟眠状態と同じ明智の状態に到達しながら日々の生活において、淡々と営みをごく普通人として演じることこそ、苦しみを知覚することがない輪廻の苦しみから解脱したと答えた後に、「パリサンキヤーナ念想」が具体的な方法論として続けて第三章に説かれています。
「パリサンキヤーナ念想」
非アートマンとの相互付託がある限り知覚は避けられない
「パリサンキヤーナ念想」は、知覚した対象と結びつき残存印象として記憶し、その過去の記憶を現在から未来へと開展(繰り広がること、また、一面に広げること)し、そのことによって業(カルマ)という自動反応となり、苦しみの連鎖からどのように解脱するのかについての念想となっている。
ここ(パリサンキヤーナ念想)では言及されてはいないが、「非アートマンとの相互付託」という非アートマンをアートマンとし、または、アートマンを非アートマンであると誤って認識してしまう限りにおいて、知覚することを避けられません。
つまり、誤った付託による残存印象が、知覚対象を展開(心理学用語で言う投影)するのは、誤った付託が残存印象という種子が心(心素:チッタ)の中に存在させていることを教えてくれていると言える。
知覚することは避けられないけれど、その知覚することを手段として、どのようにして新たに業(カルマ)となる残存印象としないのかとするのが「パリサンキヤーナ念想」となります。
快・不快の残存印象が時間を作り出す
知覚することによって不随する「快・不快」や「好ましい・好ましくない」そして、「苦楽」という判断が序列というグラデーションとして印象に残っています。
それらの残存印象について、「貪欲」と「嫌悪」という無明が加わることで未来という時間を作り出す必要が生じてくるわけです。
例えば、食べログでのレビューがもの凄く高いお店に一時間並んで食べた料理が塩辛くて不味い…
この状況により、レビューなんて当てにならない、とか、料理人に対してこんな料理善く提供するな、といった残存印象を心に抱き、同時に、「貪欲」と「嫌悪」を加えることで、今度という機会もしくは時間を作り出します。
これは人生と同じで、死に際で、どのような残存印象という種子を心に記憶し、そのことに対しての「貪欲」と「嫌悪」を加えることで、次の生まれ変わりという人生という時間を作り出していることと同じだと言えます。
内的心理器官のカラクリ
アンタッカラーナと呼ばれている内的心理器官を無明という誤った付託により作り出してしまったことで、私たちは、知覚した対象を、マナス(意思)が情報伝達し、「私のもの」や「私」として結びつかせる我執(アハムカーラ)が結合した記憶を、心素(チッタ)に残存印象(サムスカーラ)として蓄積させ、その残存印象を新たに知覚する人物や状況に上書きして、自動的に善悪の業で反応してしまうというカラクリが無意識的に生じています。
知覚対象はアートマンではない
「パリサンキヤーナ念想」は、簡単に言えば、知覚対象はアートマンではない、と、知覚した後で知覚対象をアートマンだとする誤った付託を拒否する、もしくは、アートマンとして結びつけた残存印象を作らない、ということになります。
最後に
この “note” 読まれている智者の貴方へ
智者である貴方は、自分たちの心の主人公になるとき、この世界がそのまま、楽観的な世界になるという、ヴィヴェーカーナンダ師の言葉を沿えて最後とさせていただきます。
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