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幻想を知覚し苦しむ智者である貴方の為の「パリサンキヤーナ念想」


はじめに

シャンカラ師による『ウパデーシャ・サーハスリー』のⅡ散文篇第一章「弟子を悟られる方法」と第二章「理解」に、教師が弟子にどのように教えるのかについての問答が説かれています。

最終的な弟子の理解に対しての答えを以下のように説いて閉じています。

110節[師は言った。]
まさしくその通りである。覚醒状態と夢眠状態とを特徴とする輪廻の原因、それが無明である。その無明を取り除くもののが、明智である。このようにして君は無畏に達したのです。君は、今後、覚醒状態と夢眠状態において、苦しみを知覚することはない。君は輪廻の苦しみから解脱したのです。

『ウパデーシャ・サハスリー』2.2.110

以前に、「誰しも熟眠時に神様の元へ還っている?」にて、覚醒状態・夢眠状態・熟眠状態について記述しましたが、起きている覚醒状態でも熟眠状態と同じ明智の状態に到達しながら日々の生活において、淡々と営みをごく普通人として演じることこそ、苦しみを知覚することがない輪廻の苦しみから解脱したと答えた後に、「パリサンキヤーナ念想」が具体的な方法論として続けて第三章に説かれています。

「パリサンキヤーナ念想」

112節
この[要点を反復する]パリサンキヤーナ念想は、解脱を求め、すでに得られた善悪の業を滅することに専念し、新たな[善悪の業]が蓄積しないことを願っている人びとのために、説かれるのである。

[貪欲と嫌悪という]欠点の原因は無明であり、言語活動・心的活動・身体活動の原因は[貪欲と嫌悪という]欠点である。

これらの活動から、望ましい果報をもたらす業、望ましくない果報をもたらす業、あるいは両者の入り混じった果報をもたらす業が蓄積される。

それゆえに、それらの業から解脱を[達成する]ために、[このパリサンキヤーナ念想が説かれる]。

113節
さて、音声、可触物、色・形、味、香は、感覚器官の対象であり、耳など[の感覚器官]によって知覚されるべきものである。それゆえに[音声などは]、それ自体をも、他のものをも、認識する力をもたない。音声などは、土塊などのように、[未開展の名称・形態から]開展したものにすぎないからである。そして、[音声などは]耳など[の感覚器官]によって知覚される。

そして、[音声などを]知覚するものは、知覚の主体であるから、[音声などとは]種を異にしている。音声などは相互に結合しているから、生起・成長・状態の変化・衰退・消滅、結合・分離、出現・消失、変化の原因・変化の結果、畠(=女性?)・種子(=男性?)などのたくさんの属性を有している。また、等しく、苦・楽など多くの[他の]属性をもっているのである。その音声などの知覚主体は、まさにそれらの知覚主体であるから、音声など[の感覚器官の対象]のあらゆる属性とは本性を異にしている。

114節
そこで、[現に]知覚しつつある音声など[の感覚器官の対象]によって苦しめられている智者は、以下のように、パリサンキヤーナ念想を行うべきである。

115節
私(=アートマン)は、見を本性とし、[何ものとも]結合することなく、変化することなく、不動であり、不滅であり、恐れをもたず、極めて微細である。したがって音声は、単なる音一般としても、あるいは、特殊な属性をもった[音]ー 音階の第一音などの好ましい[音]あるいは賞賛などの望ましい言葉、あるいは嘘・嫌悪・侮辱・悪口などの望ましくない言葉 ー としても、私をその対象となして、私に触れることは出来ない。なぜなら私は[音声と]結合しないから。

まさにこの理由のために、[私は]音声のために損失をうけたり、利益を得たりすることはない。それゆえに賞賛・非難などの快・不快を特徴とする音声は、一体私に何をなすことが出来ようか。確かに、識別能力をもたず、音声を[自分の]アートマン[と結合している]と理解する人にとっては、好ましい音声は利益をもたらし、好ましくない音声は損失をもたらす。なんとなれば[かれは]識別能力をもっていないからである。しかし[音声は]、識別能力を具えている私には、毛髪の先ほど[の利益や損失]をもたらすことは出来ない。

全く同様に、[可触物も]、可触物一般としても、あるいは特殊な可触物 ー 冷・熱・軟・硬など、およぶ熱病・腹痛などの好ましくない[可触物]と身体に内属した、あるいは外的で偶然的な原因に基づく何か好ましい[可触物]ー としても、私に利益・損失を特徴とするいかなる変化をももたらすことはない。[私は]可触物をもたないから。ちょうど拳で打っても、虚空に[何の変化も起こらないように]。

同じように、[色・形も]、色・形一般としても、あるいは特殊な色・形 ー 女性の身体的特色などを特徴とする好ましい[色・形]と好ましくない[色・形] ー としても、私になんら損失も利益ももたらさない。[私は]色・形をもたないから。

同様に、[味も]、味一般としても、あるいは特殊な味 ー 愚か者によって知覚される甘味・酸味・鹹味・辛味・苦味・収斂味という、[好ましい味と好ましくない味] ー としても、本性上味をもたない私には、何の損失も利益ももたらさない。

同じように、[香も]、香一般としても、あるいは特殊な香 ー 花などや塗香などを特徴とする、好ましい[香]と好ましくない[香] ー としても、本性上香をもたない私には何の損失も利益ももたらさない。なぜなら、
「常に、音声、可触物、色・形をもたず、また味・香を有しない...もの、[それを認識して、人は死の口から脱する]。」(『カタ・ウパニシャッド』3.15)
という天啓聖句があるからである。

116節
さらに音声などの外界の[対象]はすべて、身体の形をとり、またそれらを知覚する耳などの[感覚器官の]形をとり、二つの内官と[苦・楽のような]その対象の形をとる。なぜならそれらは、あらゆる活動の場合に、相互に結合し、複合しているからである。このような訳であるから、知識ある私にとっては何人も、敵でも、味方でも、中立でもない。したがってもし、[誰かが]誤った知識に基づく、[アートマンに関する]間違った理解のために、私に、行為の結果である特徴である、好ましいものと好ましくないものを結びつけようとするならば、[私に]それを結びつけようとしても無駄である。なぜなら、次のような古伝書[の言葉]によれば、私はその対象ではないからである。

「これは未開展者である。これは不可思議である。[これは不変である、といわれる]。」(『バガヴァッド・ギーター』2.25)

同様に、[一切の]五[大]元素によって変化をうけることはない。なぜなら、次の古伝書[の言葉]によれば、私は[五大元素の]対象ではないからである。

「これは切られず、これは焼かれず、[潤されず、乾燥されない...]。」(『バガヴァッド・ギーター』2.24)

また、私を信愛する者も、その反対の者も、身体と感覚器官の集合体のみに注意を向けて、[私に]好ましいもの、好ましくないものなどを結合させようと願い、その結果、善業と悪業などを得るのである。善・悪の業を得るのは、それらの人びとであって、不老・不死・不畏の私ではない。なぜなら、つぎのような天啓聖典と古伝書[の言葉]があるからである。

「すでになした事も、未だなしていない事も[ともに]それを焼くことはない。」(『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』4.4.23)

「[これは]内も外も含み、不生である。」(『ムンダカ・ウパニシャッド』2.1.2)

「[一切有類の内我も]、世間の苦に汚されることはない。その外に存在しているからである。」(『カタ・ウパニシャッド』5.11)

そして、アートマンでないものは実在しないから、ということが、最高の理由である。二元は実在しないから、アートマンの不二性に関する、ウパニシャッドのすべての文章が、詳細に、考察されるべきである、考察されるべきである。

『ウパデーシャ・サハスリー』2.3.112-116

非アートマンとの相互付託がある限り知覚は避けられない

「パリサンキヤーナ念想」は、知覚した対象と結びつき残存印象として記憶し、その過去の記憶を現在から未来へと開展(繰り広がること、また、一面に広げること)し、そのことによって業(カルマ)という自動反応となり、苦しみの連鎖からどのように解脱するのかについての念想となっている。

ここ(パリサンキヤーナ念想)では言及されてはいないが、「非アートマンとの相互付託」という非アートマンをアートマンとし、または、アートマンを非アートマンであると誤って認識してしまう限りにおいて、知覚することを避けられません。

つまり、誤った付託による残存印象が、知覚対象を展開(心理学用語で言う投影)するのは、誤った付託が残存印象という種子が心(心素:チッタ)の中に存在させていることを教えてくれていると言える。

知覚することは避けられないけれど、その知覚することを手段として、どのようにして新たに業(カルマ)となる残存印象としないのかとするのが「パリサンキヤーナ念想」となります。

快・不快の残存印象が時間を作り出す

知覚することによって不随する「快・不快」や「好ましい・好ましくない」そして、「苦楽」という判断が序列というグラデーションとして印象に残っています。

それらの残存印象について、「貪欲」と「嫌悪」という無明が加わることで未来という時間を作り出す必要が生じてくるわけです。

例えば、食べログでのレビューがもの凄く高いお店に一時間並んで食べた料理が塩辛くて不味い…

この状況により、レビューなんて当てにならない、とか、料理人に対してこんな料理善く提供するな、といった残存印象を心に抱き、同時に、「貪欲」と「嫌悪」を加えることで、今度という機会もしくは時間を作り出します。

これは人生と同じで、死に際で、どのような残存印象という種子を心に記憶し、そのことに対しての「貪欲」と「嫌悪」を加えることで、次の生まれ変わりという人生という時間を作り出していることと同じだと言えます。

内的心理器官のカラクリ

アンタッカラーナと呼ばれている内的心理器官を無明という誤った付託により作り出してしまったことで、私たちは、知覚した対象を、マナス(意思)が情報伝達し、「私のもの」や「私」として結びつかせる我執(アハムカーラ)が結合した記憶を、心素(チッタ)に残存印象(サムスカーラ)として蓄積させ、その残存印象を新たに知覚する人物や状況に上書きして、自動的に善悪の業で反応してしまうというカラクリが無意識的に生じています。

知覚対象はアートマンではない

「パリサンキヤーナ念想」は、簡単に言えば、知覚対象はアートマンではない、と、知覚した後で知覚対象をアートマンだとする誤った付託を拒否する、もしくは、アートマンとして結びつけた残存印象を作らない、ということになります。

最後に

この “note” 読まれている智者の貴方へ

ヴィヤーサという偉大な賢者がいました。
彼の息子シュカは、完璧な人として生まれました。
彼をジャナカ王の宮廷に送りました。
彼は偉大な王であって、ジャナカ・ヴィデハと呼ばれていました。
ヴィデハは「身体を持たない」という意味です。
王様でありましたが、彼は自分は肉体であることを完全に忘れていました。
常に、自分は霊である、と感じていたのです。
この少年シュカは、教えを受けるべく彼の元に送られたのです。

王様は、ヴィヤーサの息子が智慧を学ぶために自分のところに来る、ということを知っていました。
そこで彼は、前もってある準備をしました。
少年が王宮の門のところに姿を現したとき、門衛たちは彼にまったく注意を払いませんでした。
彼らはただ、彼に席を与え、彼は誰に話しかけられるでもなく、誰であるか、どこから来たかと尋ねられるでもなく、三日三晩、そこに座っていました。
彼は非常に偉大な賢者の息子でありました。
彼の父親は国中から敬われており、彼自身はこの上もなく立派な人物でした。
それなのに、身分低く、粗野な門衛たちが一顧も与えないのでした。

その後で、突然、大臣たちとすべての高官がそこにやって来て、最大の栄誉を持って彼を迎えました。
彼らは彼を壮麗な部屋部屋に導き入れ、香ばしい水で沐浴させ、素晴らしい衣服を与えて、八日間、あらゆる種類の贅沢をつくしてもてなしました。
その間、あの厳かに澄み切ったシュカの表情は、受けた待遇の変化によって、いささかの変化も示しませんでした。
この贅沢の最中にあって、入り口で待たされていたときと、まったく同じでした。それから、彼は王様の前に連れて行かれました。

王様は王座に座り、音楽が奏でられ、ダンスその他の楽しみが進行中でした。
王様はそこで、縁までミルクに満たされた一つの茶碗を彼に与え、ミルクを一滴もこぼさないで広間の中を七回まわるように命じました。
少年は茶碗を取り、音楽が響き美しい顔の並ぶ広間の中を歩き始めました。
彼は王様に命じられた通り七回まわり、茶碗のミルクは一滴もこぼしませんでした。
少年が許さない限り、世界の何ものも、彼の心を引きつけることは出来なかったのです。
彼が王様の前に茶碗を持って行くと、王様に彼は言いました、「あなたの父君があなたに教えたことと、あなたが自分で学んだことを、私は繰り返すことが出来るだけである。あなたはすでに真理を学んだ。家にお帰りなさい」と。

『カルマ・ヨーガ』スワミ・ヴィヴェーカーナンダ講話集

智者である貴方は、自分たちの心の主人公になるとき、この世界がそのまま、楽観的な世界になるという、ヴィヴェーカーナンダ師の言葉を沿えて最後とさせていただきます。

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