共通のものは重なるし競争しない
まずはじめに
最近ではよく知られていることですが、量子力学者や実験物理学者が素粒子を観察する時、素粒子の運動や運動法則というものについて、粒子でありながらも波動であるという二面性があることが言われています。
たとえば、小さな子供がひとつの玩具を取り合えば、ケンカになるでしょう。それは、玩具は粒子として観測されるのでひとつのものだとするからになります。
しかし、その小さな子供たちと玩具を波動であるとするならば、音の音波は重なり合うことができますので、同時に、融合してぶつかり合うことなく存在することができます。
物体を粒子として考えますと、空間を占める粒子ならば、ひとつの空間に物体があればその空間には別のものが収まることができません。ひとつの駐車スペースに車は一台しか停められません。
素粒子のレベルだと、観察者がどのように観るか次第で、ひとつの物体が占めるところに次の波動が重なることができて、空間を超えてしまうというような不思議な現象が生じることになります。
ここが科学者のジレンマとなってしまい、物質が先なのか意識という観察が先なのかという話しに陥っているようです。
ここで、このジレンマに対しての解答がヴェーダンダ哲学にあり、人や物そして状況に対して、名称や形態として異なる粒子ではなく、共通の波動として観察することで、拒否拒絶反発からではなく融合し平安を共有するという考えが根底にあることをまずはじめにお伝えして、今回は、大叙事詩マハーバーラタの中の有名なお話しとなるヴィヤーダ・ギーター(肉屋の詩)を引用して解説を試みてみます。
ヴィヤーダ・ギーター(肉屋の詩)
■肉屋の詩のあらすじ
森の中でカウシカという名のバラモンという最高位の身分の修行僧である行者が木の根元で瞑想をしていると、カラスとツルがケンカをはじめ、枯葉(糞)を頭の上に落しました。
腹を立てて睨みつけると、たちまちその眼光で鳥たちは灰になってしまいましたので、行者はこのような力を得たことに有頂天になりました。
そののち行者は村へ托鉢に行き、ある家で食べ物を求めると、その家の奥の方から「少しお待ちください、行者さん」と主婦の声が聞こえました。
「偉大な力を持った私を待たせるなど!」とその行者がしびれを切らしていると、「行者さん、ここにはカラスもツルもいませんから」とまた同じ主婦の声が家の奥からします。
「なぜ、あなたはそのことを知っているのですか?」と行者は驚いて尋ねました。
「行者さん、私はあなたのようにヨーガも修行も知らないごく普通の女です。お待たせしたのは、病気の夫の世話をしていたからです。生まれてからずっと、自分の務めを果たし、一生懸命働き、嫁ぐ前は親に尽くし、嫁いでからは夫に尽くすこと、これが私が実行しているヨーガのすべてです。無心で自分の務めを果たしているうちに、私は智慧をいただき、あなたの心や森での行いもわかったのです。もしあなたがもっと高いことをお知りになりたければ、市場のヴィヤーダをお訪ねください」
そのヴィヤーダとは猟師や肉屋として生計をたてている人だとわかり、「なぜヴィヤーダなどの下層階級の者に私が会わねばならないのか」と思いつつ、どうしても気になるので、行者が市場にやってくると
「あの主婦があなたをここへよこしたのですね」とヴィヤーダは言い、家まで行者を連れてゆきました。
ヴィヤーダは主婦と同じように行者を長い間に待たせ、まず自分の父母の世話をしてから戻ってきて言いました。「わざわざお越しくださった行者さま、何をさせていただきましょうか?」
行者が魂と神について質問すると、ヴィヤーダは深遠な教えを語りました。(それはマハーバーラタの一部となって、ヴェーダーンタ哲学の最高境地のひとつとされています)
「あなたほどの方が、なぜヴィヤーダとして醜い、不浄な仕事をしておられるのですか?」行者が感嘆して尋ねると、ヴィヤーダは静かに答えました。
「行者さま、この世に醜い仕事、不浄な仕事などありません。私はこの場所に生まれ、商売を習い、執着心を持たないで自分の義務を果たし、父母を幸せにしようと努力しています。私はあなたの行っているヨーガも知らず、行者にもならず、世俗を離れて森に入ったこともありませんが、今、お話したことはすべて、私に定められた務めを無執着の心で行うことで得たものです」
行者は森へ入るときに、父母に黙って家を出てきていました。しかし、彼は家へと戻り、甲斐甲斐しく父母に尽くしたそうです。
■肉屋の詩の解説
このお話は、家庭の主婦と肉屋が、ヨーガ行者よりも修養(精神を練磨し、優れた人格を形成するように努めること)がずっと進んでいたということを現していますが
インドでは、家住者が行じることができるヨーガとしてカルマ・ヨーガ(行為のヨーガ)と呼ばれていて、家族や友人知人の中に絶対者ブラーフマン(神様)を見つつ間違った心の状態を象徴し迷妄する自我を滅却するための無私の行為を実践するヨーガとして知られています。
一般的には、家庭の主婦やインドのカーストにおいては最下層とされるお肉屋さんが、修行僧よりも精神を練磨し優れた人格を形成するように努めることによって、人間的な成長がずっと進んでいたということを現しています。
また、家庭において、家族に対して、無心の奉仕をし続ける主婦はカルマ・ヨーガ(行為のヨーガ)を実行していることから、この世に醜い仕事、不浄な仕事などない、または、職業に貴賎なしを教える話とされています。
ヴィヤーダの秘密をこっそりと…
■ナーマ(名称)とルーパ(形態)にとらわれない
サンスクリット語のナーマは、日本語の名前で英語だとネームになったと言われていますが、この名称と形態というものは、私たちが最も大切にして執着するものとなります。
しかし、このムンダカ・ウパニシャッドに書いてあるように、ヴィヤーダは海に流れる前のいくつもの名称と形態の異なる川ではなく、流れ込んだ海として、つまり、名称と形態が融合した海として観る賢者であると言えます。
そうなると、荒川も隅田川という区別のない、馬鹿にされたとか馬鹿にしたとか、お金持ちだとか貧乏人とか、世間体が良いとか悪いとか、などなどのさまざまな名称や形態という異なりではなく、すべてがただの絶対者ブラーフマンとかアートマン(真我)として観察することとなっています。
たとえば、治療に関して言えば、自分はあなたを治してやる医者であなたは落ちぶれてしまった病人であるとか、自分は国民に減税をしてやる政治家で国民は税金のおこぼれをちょうだいする国民とか…
こうなってしまうと、「まずはじめに」で触れましたように、粒子同士でぶつかり合うことになりますので、お互いに生きづらくなると言えます。
ヴェーダンダ哲学では、私たちの誰もが、もう名もないような形でイコールになっている、川と海の喩えで言うならば、海の中の水滴の一つひとつとして、平安にイコールの状態であると考えています。
しかし、外側に向いている私たちの目が知覚する世界は、名称と形態の違いを明確にはっきりと対立したものとして認識することによって、身近なことで言えば、肉体が重なり合わない部分だけが押し合いへし合いの状態となり、自分に優位なポジションを勝ち取るための競争原理が働くことになっています。(逆に、瞑想にて、内側に眼を向けて知覚する共通の世界もまたヨーガであるとも言えます)
つまり、川下にある海へと流れる自然な方向よりも、川上へと個別化したもしくは特別化した方向へと向かうことを良しとする現状の中で、ヴェーダンダ哲学が導く方向性は、自然な方向性へと、そして、私たちの共通な出自へと還る道ですので、なかなかに、厳しいと言わざるを得ないと思います。
でも、少しずつ学んで実践することでヴィヤーダやカウシカのようになれます!
最後に
奇しくも、私も、カウシカと同じように、結婚を機に東京の家を出て大阪へ行き家族を持ちながらヨーガと出会い紆余曲折を体験し約二十年の修養を得てから現在では東京の実家に戻り老いた母の介護をしています。
カウシカのように眼光鋭くカラスを焼き殺すというような超能力とはいかないですが、私をよく知る人からはサイキック現象を起こす者ではありましたけれど、カウシカとは逆に、ヨーガを学べば学ぶほどに、超能力はある程度付随するものではあっても重要なものではないことを先生から教えていただきました。
このヴィヤーダ・ギーターの話しを聞いた当時は、インドのヒマラヤで修行する気持ちが満々だったことが懐かしいです(笑)行く機会の度に子供の予定日が重なり行けずに、断念して、大阪に行者さんが来られた時にデーラーナンダ・ヨギという聖名をいただきました。
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