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「ブラーフマンについて熟考する」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.1.1)


はじめに

ヴェーダーンタ哲学の真髄たる『ブラフマ・スートラ』に初めて触れる方々も多いと思われますが、そのような方々にとって、見慣れない単語が飛び交ったり意味不明な文章が見受けられても引きずることなく読み進めてくだされればと思います。

今回は、私にとっても、ここは意味が通らないような箇所もありますし、サンスクリット語で分からないところは、とりあえず、Purva-prakrta-apekcdのように正確ではありませんが表記しておきました。

天啓聖典(シュルティ・プラスターナ)は、ヴェーダ聖典、ウパニシャッド聖典群となり、聖伝聖典(スムリティ・プラスターナ)は、バガヴァッド・ギーター、マヌ・スムリティなどで、論理聖典(ニヤーヤ・プラスターナ)は、ブラフマ・スートラ、パンチャダシなどに聖典は分類されているので

今回の『ブラフマ・スートラ』は、論理聖典と言われています。そして、重要なウパニシャッドを引用しているので、ヴェーダーンタ哲学を学ぶ上でとても役立つ内容となっています。

しかし

正直、ところどころにおいて、些末な論争があったりして、「全部訳さずに学者でも学生でもないんだから、要所要所をかいつまんでも良いのではないか」という声を押し殺しながら続ける次第ですので、智者でいらっしゃる皆様も継続して学習されることを願っています。

シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』第一篇 第一章 一節

表題1 ブラーフマンについて熟考する

これはスートラの中の最初の格言であり、ウパニシャッドの意味の確認に対処し、私たちが説明しようとするものである。

1節 したがって(Hence)これより続けてブラーフマンについて熟考する。

アタ(thereafter/その後)という単語は、「順序」という意味で使われているのであって、「開始」という意味では使われていない。というのも、ブラフマ・ジジナーサは開始する(*18)ことができるものではないからである。

(*18)commenced:ブラフマ・ジジナーサとは、文字通り、ブラーフマンを知りたいという願いを意味する。願いは、何かが努力によって達成可能であり、達成すれば望ましい結果につながるという知識から自然に生まれる。したがって、願いは、たとえば鍋(pot)のように始めることはできない。したがって、このフレーズは「ブラーフマン(の性質)に関する熟考」を意味し、文章を完成させるためには「着手される」と付け加えなければならない。この解釈によれば、アタは開始を意味することはできず、その考えは動詞自体に含意されているので、その動詞を補う必要がある。(f. n. 26)

また、「縁起(auspiciousness)」という意味は、文の趣旨に構文的に入ることはできない。その上、アタという単語は、他の意味で使われたとしても、それが聞こえた(*19)という事実そのものから、縁起を担ぐという目的を果たすのである。

(*19)heard:法螺貝の殊勝な音のように

もしそれが、先に切り出された何かによって、後に何かが起こるという予期を意味するのであれば、これは因果関係(*20)(すなわち順序)と効果において違いはない。

(*20)causality:Purva-prakrta-apekcdは、例えば列挙のように、先に切り出された何かを前提にして、後の話題を切り出すことを意味するかもしれない。しかし、この格言の前には何も語られていないのだから、この意味は許されない。あるいは、前の要因によって後の要因が予期されるという意味かもしれない。しかしその場合、因果関係に行き着く。

「順序」の意味は当然として、宗教的儀式(または行い)に関する熟考が必ずヴェーダの以前の研究に依存するのと同じように、ブラーフマンに関する熟考の前提条件となる以前の事柄について言及しなければならない。ヴェーダを学んだという要因(バラモンについての熟考と宗教儀礼の両方の場合)は、ここで求められている前提条件にはなり得ない。

反論:宗教的儀式についての以前の理解は、特別な要因(ブラーフマンについての熟考につながる)としてここで受け入れられる。

ヴェーダンティン:そうではない。ウパニシャッドを学んだ者であれば、宗教儀式を熟考しなくても、ブラーフマンについて熟考することは論理的に可能である。そして、ここでは、心臓(heart)を取り上げるなどの手続き上の取り決めのように、命令(*21)が差し止めを求められることは、これら2つの間の順序は意味していない。

(*21)enjoined: アヴァダーナという単語は、捧げ物として捧げるために犠牲動物の四肢を切り落とすことを意味する。注釈者はこれを「取り上げる」と解釈している。そのテキストは Hrdayasya afire avadyati atha jibvayih atha vaksarahです。 さて、これらの手足を同時に取り上げることはできない。したがって、順序に従わなければなりません。このことは、「それから」という意味でアタという単語が使われていることからも明らかである。

というのも、これら2つの間に、全体とその部分との間のような関係を立証する証拠も、派生的な能力(すなわち、あるものにおける能力が他の何らかの(*27)能力から派生したものであること)を示す証拠もないからである。

(*27)else:センは全体(または原理)であり、セサは部分(または補助)である。この二つの熟考には、そのような関係はない。また、ダルサ・プルナマーサの儀式を行ったことによって、ソーマの儀式を行うことができるようになるというような、派生的な能力関係もない。これら二つの関係のいずれかが証明される場合、犠牲を捧げる者は同一人物である。しかし、ここではその両方が除外されているため、2種類の熟考を行う者は異なっていてもよい。

さらに、徳行(*28)とブラーフマンに関する熟考は、結果と探求対象に関しても異なっている。徳のある行いには、その結果として世俗的な繁栄があり、それは(いくつかの儀式などの)遂行(performance)に依存する。

(*28)deeds:「行いは、その結果の観点から見ても、望ましくない結果と結びつかないダルマ(dharma)であるとされ、それは至福の原因のみである」(sloka-vartika.I.i.2, 268-269)。

徳のある行いは、その結果として世俗的な繁栄をもたらす。しかし、ブラーフマンの知識は、その結果として解脱をもたらし、他のいかなる行いにも依存しない。

徳のある行いには、世俗的な繁栄という結果があり、それは儀式などの遂行に依存する行い(performance)次第である。しかし、ブラーフマンの知識は、その結果として解脱をもたらし、他のいかなる行い(performance)にも依存しない。

その上、探究されなければならない徳のある行いは、まだ達成されるべきものであり、成就されるべきものであり、(経典などから)知った時点では存在せず、その出現は人間の努力に依存しなければならないからである。

一方、ここで探求されるブラーフマンは、あらかじめ存在する実在であり、それは永遠に存在するので、人間の努力には依存しない。その上、ヴェーダのテキストによって喚起される精神的反応には(どちらの場合も)違いがある。

徳のある行いに関する知識を与えるヴェーダの経典は、人々にその趣旨を明らかにし、同時に人々の注意をその行いに向けるように命じた(*24)。

(*24)enjoined:命令(injunction/戒律)は聞く者の心にその意味を生じさせ、聞く者はまず「この文章(text)は私に特定の方法で行動することを望んでいる」と考え、次に「私はこの命令に従って特定の方法で行動すべきである」と考えるようになる。この第二の思考は、結果(例えば天国)への欲望によって促される。そして、結果につながる儀式の形式や、その道具、付属品、補助的な行為などについて学ぶ。こうして、2種類の思考から、徳のある行いについての知識が生まれ、次に行動が生まれる。

知識は命令の産物ではないので、例えば、ある対象(*25)への目の接触によって知識を得ることがないように、人は知ることを強いられることはない。

(*25)object:私たちが目を通して見るのと同じように、私たちは「この自己はブラーフマンである」(Ma.2)といったヴェーダのテキストを通してブラーフマンを知るのです。ヴェーダのテキストは、このように、直接知覚と同じように、知識の有効な手段である。

それゆえ、ブラーフマンについての熟考を進めることができると教えられた後の前提条件として、何かが指摘されなければならない。

答え: それは、永遠なるものと永遠ならざるものを区別すること、(労働の)果実を現世と来世で享受することへの無執着、心のコントロール、感覚や器官のコントロールなどの修行の完成、そして解放(解脱)への渇望である。これらの存在が認められれば、ブラーフマンは、徳のある(高潔な)行いを探究する前でも後でも、熟考したり知ることができるが、それ以外ではできない。それゆえ、アタという言葉によって、ここに挙げた修行の完成への継承が命じられているのである。

アタ(それゆえ)という言葉には因果関係を暗示している。

「要点を説明すると、仕事によって得た楽しいものがこの世で尽きてしまうのと同じように、功徳によって得たあの世の楽しいものも尽きてしまう」(Ch. VIII. i. 6)というような文章では、ヴェーダは、より高いものを達成するための手段であるアグニホトラの犠牲などが、消え去るような結果をもたらすことを明らかにしているし、また、儚い結果であることを明らかにしているし、また、「ブラーフマンを知る者は至高に到達する」(Tai. II. i)とテキストに述べられている。 ヴェーダは、ブラーフマンの認識から人間の最高の目的(解脱)が得られることを同様に示しているし、したがって、前述の修行が完了した後に、ブラーフマンについて熟考する必要がある。ブラフマー・ジジナーサとは、ブラーフマン(*26)についての熟考を意味する。

(*26)Brahman:文字通りの意味は「ブラーフマンを知りたい」ということだが、暗黙の了解として、「ブラーフマンの直接的な知識を得るためには、ウパニシャッドのテキストを熟読する必要がある」という意味になる。「願い」は比喩的に「願いから生じる熟考」を意味し、「知識」は「特別な種類の直接知識」を意味し、「着手されるべき」という動詞を補う必要がある。

そして、ブラーフマンとは、今後「宇宙が誕生したものなど」と定義されるものである。(B. S. I. i. 2)したがって、ブラーフマナのカーストなどの意味での言葉の誤解があってはならない。ブラーフマン(複合語が分割されたとき)の後に来る6番目の格終止は、非難的な意味で使われるし、単なる関係という意味ではない。というのは、知りたいという願望は、知られたい(*27)という事柄を前提としているからであり、それ以外に探求すべきことは何も示されていない。

(*27)known:動詞 "wish (or want) "と "know "はどちらも他動詞で、目的語を持たなければならない。願いは知識を目的語とし、知識はブラーフマンを目的語とする。人は、まず何かを知らなければならない。そうすれば、知識は願いの原因にも結果にもなる。原因となる知識は未熟で間接的な理解であるのに対し、結果として生じる知識はブラーフマンの啓示に至る成熟したものである、と言うことでこの困難は回避される。(f. n. 30)

反論:たとえ第6格末が関係の意味でとらえられたとしても、ブラーフマンが熟考の対象であるという事実を否定することにはならない。なぜなら、一般的な関係には、すべての特別な関係(例えば、目的語と動詞の関係)が含まれるからである。

ヴェーダンティン: それでも、ブラーフマンを直接の対象として放棄し、一般的な関係を通してそうであると空想するのは、無駄な努力である。

反論:無駄ではない。というのも、それによって、ブラーフマンに関連するすべてのものについての熟慮が視野に入れられることが暗示されようとしているからである。

ヴェーダンティン:そうではありません。なぜなら、主要な要素が手に入れば、補助するものが暗黙のうちに現れるからです。ブラーフマンは知識(*29)によって理解されることが最も望まれる対象であるので、それは主要な要素でなければなりません。

(*29)knowledge:目的語とは「動詞の主語が(文中で)最も欲するもの」である。

この主な要因が熟考の対象として取り上げられると、ブラーフマンに関する熟考が未完成のままであることを探求することなく、他のすべての要因がpari passu を暗示されるようになり、それゆえ、この格言の意味するところとして個別に言及する必要はない。

これはちょうど、「王が行く」と言っているようなもので、まさにその言葉から、王は従者と一緒に行くのだということになる。

そしてこれは、ヴェーダのテキストと一致するように受け入れられなければならない。ヴェーダのテキストは、「これらの存在が誕生するもの、(誕生後、彼らが維持されるもの、そして、彼らが向かって進み、その中に融合されるもの)」で始まり、「それを知りたいと願う、それがブラフマンである」(Tai. III. i)と言って、(熟考の)対象としてブラフマンを直接明らかにしている。そして、このウパニシャッドのテキストは、第6格末が非難的な意味で解釈されれば、格言と一致することになる。したがって、第6格末は非難的な意味で用いられている。

ジジナーサーとは「知りたいと願うこと」を意味する。そして、(ブラーフマンの)直接的な悟り(*30)に至る知識は、(ジジナーサーの)接尾辞sanによって暗示される「願望」の対象である。

(*30)realization: 経典などから学び、常識的な見解として受け入れているブラーフマンについての常識的な視点として受け入れているのは、ブラーフマンについて熟考する原因であり、その結果として「私はブラーフマンである」という形を実現することは、その熟考の結果または目的である。このように、仲介的かつ直接的な知識は、熟考の原因と結果になり得るのである。

なぜならば、願望はその結果を目指すものであり、その願望とは、理解の有効な手段である知識によって、ブラーフマンを悟らせる(すなわち明らかにする)ことである。というのは、ブラーフマンの悟りは、人間の最高の目的であり、輪廻転生の種となる無智などのすべての悪を完全に根絶するからである。それゆえ、ブラフマンは熟考されるべきである。

(*31)knowledge:「私はブラフマンである」という形の直接的な覚醒(awareness/気づき)として表現される、分析不可能な精神的修正。

反論:そのブラフマンは、馴染みのあるものですか、それとも馴染みのないものですか?もし馴染みのあるものであれば、知識のために熟考する必要はありません。繰り返しになりますが、もし馴染みのないものであれば、熟考する必要はない。

ヴェーダンティンの答え:それに関しては、ブラーフマンは、永遠で、純粋で、知性があり、生まれながらにして自由で、全知全能であるという、よく知られた存在として存在している。というのも、ブラーフマンの語源から、永遠性、純粋性などの観念(ideas/考え)が明らかであるが、これは語源のbrmh(*32)と一致しているからである。

(*32)brmh:brmhという語根は成長を意味し、それに付加されるmanという接尾辞は(広がりに)制限がないことを意味する。つまり、ブラーフマンは派生的に、絶対的に最も偉大なものを意味する。そして、この無限性から当然のように永遠性などが導かれる。

それに、ブラーフマンの存在は、それがすべての自己であるという事実からよく知られている。なぜならば、もし自分の自己が存在すると感じているのに、決して「自分は存在しない」と感じることはないからだ。もし自己の存在について一般的な認識がなかったら、誰もが「私は存在しない」と感じていただろう。そして、その自己こそがブラーフマンなのである。

(*33)Brahman: 「この自己はブラーフマンである」(Br.Ⅱ.v.19)というテキストから知られるように。

反論:もしブラーフマンが自己としてこの世でよく知られているなら、それはすでに知られているのだから、それについて熟考する必要はないという難点がまた生じる。

ヴェーダンティン:いいえ、その独特な性質については対立があります。普通の人々やロカヤタ学派の唯物論者たちは、肉体だけが感覚を持つ自己であると認識しています。また、心が自己であるという人もいます。心は単なる一瞬の意識に過ぎないという人もいる。また、心は空虚であるとする者もいる。さらに、肉体とは別の魂が存在し、それは転生し、(仕事の)代理人であり、(結果の)経験者であると信じる者もいる。

魂は単なる体験者(*34)であり、代理人ではないと言う人もいる。この魂とは異なる神が存在し、全知全能であると言う人もいれば、神は経験する個人の自己であると言う人もいる。このように、論理やテキストやそれらの類似性(semblances/見せかけ)に応じて(頼って)、正反対の見解に従う者が大勢いる。もしもこれらの見解のいずれかを吟味することなく受け入れるならば、解脱から遠ざかり、悲嘆に暮れることになる。

(*34)experiencer: Bhoga(ボーガ/体験)とBhokta(ボークター/体験者)は一般的に享受と享受者と訳されている。しかし、この用語は幸福と悲しみの楽しみと苦しみの両方を含むことを意味している。したがって、経験と体験者の方がより的を得ている。

したがって(*36)、ブラーフマンについての熟考の提示から始まり、ウパニシャッド自体に反しない推論の助けを借りて、ウパニシャッドのテキストの意味の確認が、(知識による)解脱に導く目的で、ここに開始される。

(*36)Therefore:ウパニシャッドに基づく熟考は、(a) 束縛の普遍性という事実から、自由という結果も、個我(個々の自己)とブラーフマンの一体性という主題もあり得るということになるため、(b) 本書の主題はDharma(ダルマ)に関する考察には含まれないため、(c) 特別な資格を持つ人のクラスが存在し得るため、(d) また、ブラーフマンに対する一般的な親しみが、本書の主題などを供給するため、開始することができる。

最後に

当時のシャンカラ師のお弟子さん方は、ブラーミンというカースト最上位のお坊様階級の方々であり、そのような方々しか学べないような教えとなる『ブラフマ・スートラ』を現代に学べるということは恩寵そのものと受け取り感謝を神様へ捧げさせていただきます。

大いなる神様、すなわち、ブラーフマンを人生において求める意欲を持つ私たちは、この現代において、ブラーミンと言えるかもしれません。

徳のある行いには、世俗的な繁栄という結果があり、それは儀式などの遂行に依存する行い(performance)次第である。しかし、ブラーフマンの知識は、その結果として解脱をもたらし、他のいかなる行い(performance)にも依存しない。

上記文中より引用

はっきり言って、この『ブラフマ・スートラ』を学習することで、徳のある行いをするようになり、世俗的な繁栄という結果となるかもしれませんが、その結果が起きようと起きまいと、いかなるパフォーマンスにもその結果にも依存しない(結びつかない)精神性、つまり、自由と歓喜という名のもとに解脱を求める智者にこの拙訳が役に立てれば幸いです!

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