あなたの眼を通して神様は観察している
まずはじめに
子供の頃に、良いことも悪いことも神様が観ているんだから、ずるいことをしても観られているだよ、と先生や親から言われたことがあるかもしれません。
子供心に、その話しを真に受けて、どこで観ているのだろうとこれは観られるとマズいなというときには、まわりを見回していた頃を思い出したりします。
ヴェーダーンタ哲学とその思想について
■神様以外のものは神様ではない
バーダラーナヤナ著『ブラフマ・スートラ』をシャンカラ師が解説したものを以下に引用します。
ここで言うところの他のものとは真我(アートマン)ではないもの、つまり、個我であり、ジヴァートマンと言いますが、真我ではないもの、ジーヴァという個別化したものである私たちは、輪廻転生(幻想ですが)に行き着くことになっているように知覚しています。
私たちは、個別化しているように知覚しているので、私は私で、あなたはあなたというような個別化した差別が生じているように見えています。
そして、私は私の見方があるし考え方があって、あなたはあなたのものがあるというように、個別差があることから絶対者ではあり得ないので、筋は通らないというわけです。
『ブラフマスートラ』では、さまざまな個別化した思想や考え方が出てきたところに、真の神様というものは充分にはそこには出てこないと言うことが問題であると捉えています。
たとえば、こ(個)の世界を限りなく悪くしている場面として、あなたはあなたなので私は私、だから、競争することであなたは負けて私は勝ったとか、私の子供は東京大学に合格したけれどあなたの子供は不合格だったなどという差や違いを意識することは、神様ならざるものなのだから尊いというものではないことを教えています。
しかしながら、どのような場面であるとしても、純粋な神様の御心というものはそこには生きているということが『ブラフマスートラ』の教えの本質と言えます。
『タイッテリヤー・ウパニシャッド』において、絶対者ブラーフマンは熟考を重ねた後に世界に存在する万物を創造されたと神話のようなことが述べられておりますが、私は今のところこれには疑問を呈してしますが
ここでの理解として、神様から生み出されたものであって、神様そのものではない分身であって、神様ではないものを造り出されたのであるから永遠なものではなく無くなっていくものだとするのはどうでしょうか?
■神様以外の観察者はなし
「ひとつの命がみんなの命」にて述べたように、すべてがみんな共通のものを持っているという考えがヴェーダンタの思想の鍵となるのが、個別化したものではなく共通のものを観るということになるのですが
ここでの『ブラフマ・スートラ』は、共通のもの以外のもの、たとえば、個我というものは、その個人についての記憶や個人特有の考え方、肉体や財産とか学歴とか人種や肌の色、年齢などなど、あげればきりがないほどに多くの違いが出てきます。
これらのものは、本質的な純粋な神様のものとは違うと教えています。そして、それらのものを観ている意識というものがあって、相違を見ている意識ではなく「真の観察者を見出そう!」ということであり、真の観察者とは神様だということになります。
そのための技術がヨーガであるのですが、そのことに関しては「保守本流のヨーガについて」をご参考ください。
■子を観れば親がわかる
「神様以外の観察者はなし」だとするならば、神様は何を観ているのでしょうか?
この問いは、瞑想のテーマと成り得ますので、先に読み進める前に、今、少し時間をとって考えてみてください。
真我である私たち、つまり、子供ではないでしょうか?
そして、先ほどに触れましたように、どのような場面であるとしても、純粋な神様の御心というものはそこには生きているということが『ブラフマスートラ』の教えの本質だとするならば
個別化した個我からではなく神の子である真我を通して神様を観察者とする時、神様の恩寵が個別化した私たちのまなざしにやさしくとどまり、その眼が観る一切は、観ているその人に神様を語ることになる。
つまり、神様の子を観るならばその子の親がわかるということになり、世界の中のいかなる悪も観ることはなく、彼自身と異なるものを観ることはなくなるというのがヴェーダンタ哲学や思想となるのです。
最後に
本日の内容をごく短く述べるならば、真の観察者は神様のままであるけれども、間違った意識状態もしくは間違った心の状態による個別化した個我が歪めた知覚に浸食されているということになり、その知覚を正すための技術がヨーガであるということになります。
本来は、自分自身と異なるものを観ることはなく、それらを愛し自分自身と同じように愛とやさしさのまなざしを向けていることがごく自然なものとなる。
つまり、他者を自分自身と異なることで断罪することはなく、自分の間違いについて自分自身を咎めることもない。復讐を裁定するものでもなければ、罪を罰する者にも成り得ないのだろう。
次回は、因中有果論について、これもヴェーダーンタ哲学の主要テーマとなりますので、お話ししてみたいと思っています。
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