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「回想」 母のエッセイ 『戦争、そして今――あの日々を、一人の女性が生きぬいた』補遺作品

 徒歩十分ほどの雑木林まで、夫と二人散歩に出かけた。梅雨の中休みで日差しはけっこう強い。でも風が気持ちよく木々の間を吹き抜けていた。樹間に鶯の囀りが聞える。「春告鳥」とも言うらしいが、そう言えば、我が家の前の林では、去年、春は名ばかりの二月七日に初音を聞いた。「もう鶯が」と驚いたものである。

 四十年近くも前のことだが、私の一家は九州T市に住んでいた。そこは筑豊の炭鉱地帯。夏の暑さは格別で、水源の川が干上がって水道が一滴も出ないこともあった。炊事、洗濯、入浴万事不自由でどれほど困ったか知れない。空にぎらぎらと輝くお天道様が恨めしかった。
 
 次に住んだのは北海道のやはり産炭地。今度は一転お天道様恋しの日々だった。冬、軒下の寒暖計は零下二十度を容赦なく指している。もうどうしようもない。ここで頑張るほかはないと覚悟の臍をきめた。
 
 一年の半分は雪に埋もれるこの地。冬、一歩外に出れば吐く息も凍って苦しいくらい。窓下にぶら下がった巨大な氷柱(つらら)は、今まで見たこともない大きさだった。
 
 私が住んだ二つの産炭地、九州と北海道。暑さと寒さと極端に相違があったが、でもそこに住む人たちには共通点があった。それは「炭掘る人々」の純粋で素朴な心情だった。筑豊地帯の炭鉱で働く人々の気質を俗に「川筋気質」と言った。それは時に一本気で荒々しい所もあったが、根は率直で飾り気がなかった。深い地底で命を賭けて石炭を掘っていた産炭地の人々にとって、見栄や気取りとは無縁だった。

 九州弁と北海道弁。私は最後まで巧くは使いこなせなかったが、我が家の子供たち、ことに末っ子の一人息子は忽ち使い慣れた。今もテレビなどでこれらの方言を聞くことが時にあるが、懐かしい思いで胸が一杯になる。

 会社から支給された石炭や薪は風呂焚きやストーブに使った。薪ストーブの釜の中でパチパチと音がはじけて赤い炎が燃え盛る。しんしんと雪の降り積る北国の夜、一人ストーブの傍らで読書などしていると、ふと幻想的な気分に襲われることもあった。家の周りがあまりにも静かだったからかもしれない。

 時々、薪割りを頼んだ近所の老人。慣れた手つきで割ってくれた。物置に割った薪をきちんと並べて入れてくれた実直なこの人は私の大切な友人の一人だった。

 およそ二十年近く、これらの産炭地で過ごした。帰京した時には私は既に五十歳の坂を越していて、その上、母の一生も終りに近付いていた。二十年近くも傍にいてあげられず、母は寂しかったことだろう。僅か半年余りで母を見送った。

 戦後父が急死し、苦労を舐めつくした母。一緒に旅行したり美味しいものを食べさせてあげたりしたかった。だが、それも叶わず、最期は認知症のような症状で誰彼の見分けも付かず、亡くなった。

 私は毎日我が家の前に広がる林を眺める。その音に耳をすます。春、夏、秋とさまざまな生き物が精一杯鳴いている。それらの音色に季節の移ろいを感じすにはいられない。一転、冬は物音一つしない。裸木の下に舞う枯葉が時折かさこそとなるだけで、森閑としている。
季節の移ろいを感じる時。遠い昔、産炭地で夢中になって過ごした長い歳月を思い出す。   

  二〇〇八年一〇月八日執筆  




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