ヒンドゥー神話と先祖供養
2024年10月に発行された、日蓮宗興統法縁会の機関誌『興統 第44号 』に、寄稿した記事が掲載されてありますので、公開いたします。
実は、昨年号に掲載された記事の末尾に、
「(ペナン一念寺体験の延長として、)次回は、追善供養の根拠となっている十王思想(道教と阿弥陀信仰の混淆)、お盆・施餓鬼供養のルーツと思われる「旧暦鬼月」「清明節」について報告すると共に、沈黙の宗教といわれる道教「タオイズム」と、それ以前の大陸の民間宗教、さらに密教をも取り混ぜた「中国大乗仏教」を、インドにおける信仰形態と比較しながら紐解いていきたいと考えております・・」
と書いたのですが、日本人である私と、長らく体験したインドとの間に
ド~~ン と横たわる中華世界をいきなり記述する力は私にはまだない、ということが分かり、まずは足場を固める為に、輪廻思想が定着し「お墓のない」インド世界(ヒンドゥーイムズの世界)での先祖供養の在り方について、まとめることとしました。
アジア仏教の現在(その二)ヒンドゥー神話と先祖供養
01 波羅奈 バラナシ
ヒマラヤ山中氷河の一滴に端を発し、北インドを西から東に滔々と流れベンガル湾に注ぐガンジス河(gaṅgā 恒河)は、古来よりインドの民に聖河と讃えられ、仏典にも、数え切れないほど多い砂の例え(恒河沙)としてたびたび登場する。
ガンジス河中流左岸の都、波羅奈(バラナシ vārāṇasī)は、河に沿って階段状水浴場(ガート ghāt)が建設され、街の中央に世界主(ヴィシュヴァナータ viśvanātha)と称えられるシヴァ(śiva)寺院が鎮座し、その向かいには五穀豊穣・施食女神として名高い土地神アンナプルナ(annapūrṇā)のお寺がある。その川下と川上にあるマニカルニカガート(maṇikarṇikā ghāt)とハリスチャンドラガート(hariścandra ghāt)は、野辺の火葬をするガート(マハ・シャマシャーン・ガート mahā śamaśān ghāt)として名高く、毎日多くの遺体が身内の人々によって運ばれてくる。火葬にはマンゴー樹を切った薪のみが使われる。焼かれる焔と煙を静かに見守る人達が群れを成してあちらこちらに佇んでいる。激しく燃える炎が下火になると、喪主は聖水(ガンジス河の水)の入った甕を薪に向かって後ろ向きに投げ込む。直後に遺体が焼かれている場所を二度と見返ることなく、付き添いの人々と共に静かに立ち去っていく。その後身内の男性はガートで頭髪を剃り、喪に服す[01]。遺骨遺灰は、火葬場の作業員によって残った薪と共にガンジス河に流される。
インド亜大陸の大河には堤防がなく、しばしば大氾濫を起こして地形を変える。バラナシの街があるガンジス河左岸はしかし、非常に堅固な丘陵になっていて、ガンジス河の奔流に決して破られることはなく、北向してくる流れをがっしり受け止め、東に方向転換させていく。方向転換による湾曲によってガンジス河右岸には大きな砂州ができる。砂州は空地で建物は一切ない。この遮るものの一切ない砂州の地平線から神々しい太陽が昇って来るのを、毎朝左岸(ガートのある街側)から拝むことができる。時を経ていつしか人の住まう左岸は「欲望渦巻く現世の地、此岸」、人の住まない右岸は「解脱を得た来世の地、彼岸」と認識されるようになった[02]。
ガンジス河は雨期になるとどんどん水嵩を増し、この砂州ははるか彼方の地平線まで膨大な水量を湛え、「海のごとし」と例えられる風景となる。そして火葬ガートを含め、ガンジス河沿いの大半の寺院は水没する。年に何回かガートの高さの限界を超えて、ガンジス河の水はバラナシ街中にも広がっていく。この自然現象こそ、ガンジス河の聖水に清められる街としてのバラナシの名声の源になっている。
02 供養儀礼
バラナシ左岸(街側)には八十ものガート(階段状沐浴場)が連なっていて、インド中からヒンドゥーの民が集まり、潔斎、修養、供養、祈願などの儀礼を営んでいるのに出会う。特に目に付くのは、先祖供養(シュラッダ śrāddha)をする人たちである。時に数人の身内で、あるいは夫婦で、あるいは数十人の地域・村の人々が集団で、パンダーワラ(paṇḍā wālā )と呼ばれるバラモン僧(聖地案内僧)の導師の下、ガンジス河で沐浴をし、男子はドーティー(dhotī)という腰巻一枚で、女子はサリー(sāṛī)を着て座り、持参した様々な材料で供養の品々を作り始める。供養品や儀礼次第はバラモン僧の出身地の習慣によって多様である。一般的には、小麦粉に黒ゴマを混ぜて練りこみ「ピンダ(piṇḍa)」と呼ばれる団子を作り(その数は供養する先祖、故人の数の倍数)、乾燥させたサール樹(sāl 沙羅双樹)の葉っぱを編んだ皿に盛り、この団子を依代として先祖への儀礼が進行していく。バラモン僧は梵語マントラを唱えながら、五種甘露液(pañcāmṛta 牛乳、ヨーグルト、牛酪、蜂蜜、砂糖)、神饌(naivedya 菓子や果物など)、数種類の花弁、様々な色粉、線香などの供物を、ピンダ団子に捧げるように参加者に命じ、そこにガンジス河の聖水を注いでいく(abhiṣek 灑水)。儀礼中、時に長い梵語経文を詠ずることもある。供養儀礼が終わる頃には、その場所は多量の供物だらけになる。儀礼が終わると、参加者はそれらすべてを持ってガンジス河に流し(visarjan ビサルジャン)、自らも再度沐浴する。
インド亜大陸には様々な言語があり(インド国内の公用語は22言語)、バラナシには、先祖供養にやって来る様々な人々のそれぞれの文化的背景を共有できるバラモン僧が滞在し、ヴェーダ文献に則った儀礼次第に、それぞれの地域的特徴をはさみ込んで儀礼を行っている。
先祖供養の儀礼が終わり、沐浴によって潔斎が終わると、バラモン僧はそれぞれの言語で、「バラナシの偉大さ(kāśī mahimā)」「恒河降下神話(gaṅgāvataraṇ 聖河ガンジスの由来、その聖水で先祖供養を行う意義)」を語り始める[03]。
03 恒河(ガンジス)女神降下神話
太古の昔、沙竭羅(sāgara サーガラ)王には二人の妃がいたが、子供がおらず、シヴァ神の棲まうカイラーサ山(kailās)に入って苦行を行った。苦行が成就しシヴァ神が顕現すると、跪いて、後継ぎを授けて欲しいと願った。シヴァ神は「一人の妃には六万人の勇猛な息子が生まれ、もう一人の妃からは家系を継ぐ息子が生まれるだろう」と告げた。六万人もの子供たちは乱暴で残酷な性格だった為、世界中を悩ませることになった。人間界だけでなく、神々や半神人である乾闥婆(gandharva ガンダルヴァ)族、魔界の羅刹(rākṣas ラークシャサ)族たちも、この息子たちの狼藉に大いに悩むことになった。困った神々は梵天(brahmā ブラフマー)に相談すると、「恐れることはない、六万人の息子たちはやがて滅びるであろう」と答えた。
沙竭羅王は国域を定めるため、馬を放ち自由に走らせ、徘徊した土地全域を自国領と定める「馬祀祭(aśvamedha アシュヴァメーダ祭)」を挙行した。六万人の息子たちはその馬を護衛し、馬の行く手を遮るものを排除していった。
ところが馬は突然失踪し、六万人の息子たちは狼狽した。その失踪した場所の大地は割れていて、息子たちは中に入っていった。地底の生きもの達、魔族や畜生類は大挙して侵入してきた息子たちに踏みつぶされて嗚咽した。地底界の最奥部(pātāla パーターラ)で馬を発見した息子たちは、その地に庵を構えていた聖仙カピラに気付かず、大変無礼な振る舞いをしてしまった。
地底に鳴り響く嗚咽と無礼な振る舞いに激怒し、聖仙カピラは、鋭い眼光から熱線を発して六万人の息子たちを焼き殺してしまった。
沙竭羅王はもう一人の妃から生まれた息子アサマンジャス(asamañjas)の、さらに息子であるアンシュマン(anśumān、沙竭羅王の孫)を呼び、馬と六万人の息子達(アンシュマンの叔父達)を助け出すように命じた。大地の割れ目に入り、聖仙カピラの庵に辿り着いたアンシュマンは、地面に頭をつけて敬礼し、丁寧な言葉で願いを述べた。 「馬祀祭が成就するために馬をいただきたい。叔父にあたる祖霊の鎮魂のために、清めの水をいただきたい。」
聖仙カピラは、アンシュマンの礼儀正しい態度と言葉遣いに満足し、願いを叶えた。馬が戻り馬祀祭は成就し、沙竭羅王は国をアンシュマンに譲って天界に昇っていった。アンシュマンは聖仙カピラの教示に従って、祖霊鎮魂のための聖水を天界を流れる銀河から得ようとしたが果たせなかった。アンシュマンはその願いを孫のバギーラタ(bhagīratha)に託した。
バギーラタは六万人の沙竭羅王の息子たちの御霊と、犠牲になったすべてのものたちの霊魂を鎮める為に、天を流れる銀河のガンジス河(ākāś gaṅgā アーカーシュ・ガンガー 天空恒河)を司るガンジス女神(devī gaṅgā)に、地上に降臨し大地を浄化するよう願い、千年もの間激しい苦行をした。その功徳が実り、ガンジス女神はバギーラタ王の御前に顕現し、「私が地上に落下する衝撃を、誰が受け止めてくれるでしょうか、その衝撃に耐えることができるのはシヴァ神だけです。」と言った。バギーラタ王はカイラーサ山に登り、シヴァ神の恩寵を希って苦行をした。シヴァ神が承知するのを知ると、ガンジス女神は勢いよくシヴァ神の頭髪めがけて落下した。激しく渦巻く流れの中には、魚や鰐(わに kumbhīra 金毘羅)がひしめいていた。
ヒマラヤ山中の氷河の一滴となって地上に降臨したガンジス女神は、奔放な性格のままにあちらこちらを徘徊し、北インド一帯に様々な支流を生みだし、いつしか沙竭羅王の息子たちが落ちた割れ目から地底界をも満たしていった。ガンジス河は、降臨したヒマラヤ山脈を懐かしむかように何度も北に向きをとったけれど、その度にシヴァ神は三叉戟(triśūla)で大地を突き上げ、行く手を遮った。最後に大地を盛り上げたのがバラナシのガンジス河左岸の丘陵であるとされる。バラナシより先ガンジス河は、二度と北を向くことなく東に流れ、ガンガーサーガル(gaṅgā sāgar)とシュンドルボン(sundar vana)の地で巨大な三角州(ガンジスデルタ)を形成し、ベンガル湾に注いでいる。
北インドの太陰太陽暦であるヴィクラム暦(vikram samvat)ジェシュタ月白月十日(jyēṣṭha śuklā daśamī 六月中旬頃)に、ガンジス河の地上への降下があったとされ、各地で盛大なお祭り「ガンガーダシェーラ gaṅgā daśaharā」 が催される。
ガートの供養儀礼に参加した人たちは、バラモン僧の語る神話を聞き、太古の賢人達の先祖への供養の思いと心を共にし、ガンジス河の聖水によって、自らの先祖や、先祖に関わる生きとし生ける全てのものたちをも、同様に浄化された、との思いに満足する。ヒンドゥー儀軌において「聖水」とは正に「ガンジス河の水(gaṅgā jal)」を指し、ガンジス河の聖水で浄化供養する儀礼を、「タルパン tarpaṇ 水向供養」と名付けている。
夜空の「天の河」と、ヒンドゥー諸神、ヒンドゥーの民の英雄伝説とを結び合わせた「恒河女神の降下神話」は、北インドを流れる大河の自然環境の中で、ガンジス河の聖水によって執り行う先祖供養儀礼に、寓意的なお墨付きを与える、見事なエクリチュールと言えよう[4]。
支流も含めたガンジス河流域圏(北インド一帯)ではない地域(特に南インド)の人々は、農閑期などの機会に、水向供養を執り行ってもらう為に、大挙してバラナシを訪れる。
タルパン(水向供養)による先祖供養は、河畔(あるいは屋外)で行われる儀礼であり、寺院内では行われない。ヒンドゥーにとって寺院(mandīr)とは神々が宿る神殿(devālaya)であり、そこに先祖は宿らないからである。火葬され遺骨遺灰は河に流してしまうので墓はなく、位牌も作らない。ヒンドゥーの民の家庭では、神々を讃歎する祭壇とは別の所に遺影(写真や肖像画)が飾られてあり、花房を手向けたりして故人を偲ぶのが一般的である。
04 ピトリ・パクシャ 先祖降臨期間
梵語シュラッダ(śrāddha)をこれまで先祖供養と訳してきたが、インド学では祖霊祭という訳語を当て、シュラッダで祀られる祖霊(pitaraḥ 「父」「先祖の霊」を意味するピトリ pitṛ の複数形)の範囲について議論がされてきた。二十八種類の梵語古文献を比較対照した虫賀氏によると、シュラッダ儀礼での祭祀対象は五つに分類される[5]。
A 父、父方祖父、父方曾祖父の三体
B A + 母、父方の祖母、父方の曾祖母の六体
C A + 母方祖父、母方曾祖父、母方高祖父の(男性のみ)六体
D B + 母方祖父、母方曾祖父、母方高祖父の九体
E D + 母方祖母、母方曾祖母、母方高祖母の十二体
新たに霊となって太陰太陽暦の一回り(一年)に満たない霊は、「新霊 preta(逝去した、別離した、死人、死者の意味)」と呼ばれる[6]。
北インドのヴィクラム暦では、アシュヴィン月の黒月(āśvin kṛṣṇapakṣa)の期間に、祖霊が地上に降臨するとされ、この期間を「ピトリ・パクシャ pitṛ pakṣa」と呼ぶ。黒月とは望月(満月)翌日から朔月(新月)までの十五日間のことで、二〇二四年は九月十八日から十月二日に相当する。先にも述べたようにインド亜大陸には多くの言語(文化圏)があり、それぞれの言語で「暦」が作成されている。この十五日間のいつ、どのようなスタイルの祖霊祭を実行すると、如何なる功徳があり、安寧と願望が成就されるのか、それぞれの暦に様々に記されている[7]。
ピトリ・パクシャの期間中、ヒンドゥーの民は家庭にバラモン僧を招いて先祖供養儀礼(祖霊祭)を催す。招くバラモン僧の数は、存命する方を除いた右記の範囲の祖霊数と一致させる。新霊がいる場合には、祖霊祭に先立って、新霊の為に特に多くの供物を捧げて「一霊祭 ekoddiṣta śraddha」を執り行い、続けて「合霊祭 sapiṇḍīkaraṇa」において、新霊を祖霊に合祀する。その儀軌は様々であるが、別々の皿に用意された新霊に見立てた一個のピンダ団子と、祖霊数の倍数のピンダ団子とを、一つの皿に合わせ丁重に供物を捧げ、ガンジス河の聖水によって灑水することが基本になっている。
ピトリ・パクシャ期間中の先祖供養儀礼では、招待したバラモン僧が祖霊の依代となる。招かれたバラモン僧に祖霊が降臨するとされ、クシャ草の座具に着座してもらい、供養儀礼の前半では、各種梵語マントラ、経文の讀誦が行われ、護摩が焚かれる。後半では、先祖(祖霊)へ飲食を捧げるのに擬して、バラモン僧に各種硬食軟食、牛乳酪酥蜂蜜などを給仕していく。飲食供養が終わると、バラモン僧は儀礼全体が満足のゆくものであったことを、祝福のマントラと返礼の言葉で表明し、儀礼が終わる[6]。
ちなみに、私がバラナシ滞在中に体験したピトリ・パクシャ期間中の先祖供養儀礼では、招かれたバラモン僧は一人だけであった。その代わり近所の子供たちが何人も呼ばれて来て、施食が行われ、食後に子供たちは詩を詠じたり歌を歌ったり、ダンスを披露したりして、バラモン僧を喜ばせていた。経済的な都合や様々な状況によって、ヴェーダ文献に記されている儀礼次第に則って遂行できない時には、柔軟に次第を整えることも可能なようである。
これまで述べてきたように、ヒンドゥーの民には二種類の先祖供養の儀礼がある。
第一は、ガンジス女神降下神話に基づく、ガンジスの聖水による水向供養儀礼(tarpaṇ)で、年間を通して営まれる。
バラナシは三百キロほど西にあるサンガム、百キロほど東にあるガヤーと組み合わされ、「先祖供養の三都巡礼コース」の一角をなす。この巡礼コースはヒンドゥーの民に特に人気が高く、インド中から村単位、氏単位で何台もバスを連ねて巡礼者がやって来る。
プラヤーグのサンガム(prayāg saṅgam)はガンジス河とヤムナ河(とサラスワティ河)とが合流する聖地で、十二年に一度開催されるクンブ・メーラ祭には数千万人が訪れる。
ガヤー(gayā)にあるヴィシュヌパド寺院(viṣṇupaḍ mandir)は、インド亜大陸で唯一、寺院として先祖供養を主宰する所で、古来より供養者、修行者を集めて来た聖地である。お釈迦さまもその一人で、郊外にあるウルヴェーラ村がお釈迦様の成道を記念して、後にボドガヤ(bodh-gayā ブッダガヤ buddha-gayā)と名付けられたのはその証左である。
第二は、暦の年中行事に組み込まれ、バラモン僧を家庭に招いて営まれる供養儀礼である。日本の所謂「お盆」に相似する儀礼と言って良いであろう。あるいは、お盆の起源はここにあるのかもしれない。この儀礼に参加する一家一門、支流をも含めた親戚一同のことを、「サピンダ sapiṇḍa ピンダ団子を共有する人たち」と呼び、様々な行事において互いに助け合う。
いずれの場合も、ピンダ団子と供物をガンジス河に流し、バラモン僧も参加者もガンジス河で沐浴して、儀礼が終わる。
05 輪廻 夜摩/閻魔
ヒンドゥーの民の先祖供養儀礼を観察していると、バラモン僧がしばしば「ジャナム・マラナ・カ・チャクラ janam maraṇ ka cakra 生死の輪」と発声しているのに気付く。梵語 saṃsāra(輪廻) のヒンディー語訳である。火葬場で煙となった新霊(preta)は、ピトリ・パクシャの期間に地上に降臨する祖霊(pitaraḥ)に摂取吸引され、月の世界にある「ヤマ(yama 夜摩/閻魔)の国」に赴く。祖霊はヤマの国にて幾多の享楽を受け、その後「神路 devayāna」を通って太陽の世界(梵界 brahman)に赴き永遠に再帰しないか、あるいは「祖道 pitryāna」を通り、五つの梯段を下って再び地上に戻り、新たな活動体(saṃsārik rūpa)となる[6]。インド学の知見によると、「輪廻説 saṃsāra」は、アーリア人がインドに到達する前からインドに居住していた農耕民族に源があり[8]、年月を経て支配民族となったアーリア人に受容され、紀元前八世紀頃の古ウパニシャドの時代の「チャーンドーギヤ・ウパニシャド chāndogya-upaniṣad」や「ブリハッドアーラニヤカ bṛhad-āraṇyaka-upaniṣad」に、「五火二道説 pañcagnividya」として纏められた[9]。
ヤマは、インド最古の文献であるヴェーダ(veda)に、人類で最初の死者として謳われていて、火葬の煙となって天界に昇り月の世界に赴く道を開いた最初の霊(ピトリ pitṛ)と讃えられる。故にヤマは死者第一にして、後に昇って来る祖霊の父、死者の王となった[6]。
北インドのヴィクラム暦(vikram samvat)では、カールティク月白月二日(kārtik śuklā dvitīyā 十月下旬頃)に、ヤマ神に対して、ヤムナ河の聖水でタルパン(水向供養)をすることが勧められている[7]。
ヒンドゥーの民の根本には「霊(魂)の不滅」観がある。梵語で asu、prāṇa、manas、ātman、jīva などと呼称される霊魂は、身体が火葬された後も存在し続けるものと考えられ[6]、生と死とに隔てられている世界を合一化させる物語として、「五火二道説」が唱えられるようになった。後に「業 karma の理論」や「四住期 cār āśrama」、「神々への苦行とその功徳譚」などによって拡幅され、輪廻思想をテーマとするたくさんの物語(古潭 purāṇa)が作られていった。
06 仏教の「ヒンドゥー先祖供養」の受容
以上本稿では、「ヒンドゥーの民の先祖供養」の有様を、核心となる神話を縮約し、聖都バラナシの風景を取り入れながら紹介した。ガート(階段状沐浴場)が続く此岸の街側と、何も無い彼岸の砂州とのダイナミックな景観の対比や、雨期には河岸を水没させガンガーの聖水で街ごと洗っていく強大な自然の光景から、バラナシは古来より「この世とあの世とを行き来する渡し場(港 potāśraya)」と讃えられてきた[12]。
年に一度先祖が降臨する期間がある点など、日本のお盆に相似する行事であり、新盆のように新霊を特別に扱う点なども、理解しうる供養儀礼の姿であると言えよう。日本のお盆については、元となる盂蘭盆経の「うらぼん yúlánpén」の語源を辿ることでインドとのつながりを求めようとする研究がある。梵語の「ウランバナ ullambana 倒懸」や、「オーダナ odana オーラナ olana 飯の盆」、あるいはイラン語の「ウルバン urvan 死者の霊魂」などの単語に源があるとされる[13]。
日本古代史においては、「日本書紀巻二六」に、斉明天皇五年(六五九年)に「盂蘭盆会」が催されたという記述があり[13]、仏教伝来最初期に「盂蘭盆経」は大陸より将来されていたことが窺える。
仏教では「永遠不滅の霊魂」は認めないが、「輪廻説」は受け入れたため、ヒンドゥーの民とは異なる死生観と物語が希求された。「saṃsāra 生死の輪」の思想は、仏教では最終的には「六道輪廻」という形に整えられた。六道 ṣaḍ-gati とは、地獄 naraka 餓鬼 preta 畜生 tiryagyoni, tiryañc 修羅 asura 人 manuṣya 天 deva であるが、ヒンドゥーにはこれらの世界 loka を表す個々の単語は見受けられるが、これらの梵語を順序付けてセットで用いて「輪廻 saṃsāra」を説く梵語文献に、私はまだ出会っていない[10]。ややこしいことに、仏教が東方に伝播し、梵語教典が漢語に翻訳されていく過程で、漢語の持つ中華思想が混入したり、誤訳がそのまま独り歩きし[6]、新たな意味付けが流布していった。
土葬を主とし、墓、位牌、戒名、護符、お守りなど、インド世界には無い文化装置が豊かに整えらている「中華大陸の伝統的宗教世界」における霊魂、供養ついて、次回探索してみようと思う。
注
注 01 ヒンドゥーの臨終行儀、葬儀、火葬儀礼には今回は触れない。
注 02 Naked City Varanasi 石川武写真集 2020
注 03 「インド神話」 沖田瑞穂編訳 岩波少年文庫 2020、William,George M "Handbook of Hindu Mythology" Motilal Banarsidass Publications 2016.
注 04 大乗仏教教典の構造や譬喩などの解釈をエクリチュールという視点から考察している、「仏教とエクリチュール 大乗仏教の起源と形成」 下田正弘 東京大学出版会 2020 を参照
注 05 「『祖霊』とは誰か ‐ 古代インドにおける祖先祭祀の対象とその変遷」 虫賀幹華 2010
注 06「インドアリアンの葬儀と祖霊祭」 中野義照 1960
注 07 śrī hṛṣīkeś hindī pañcāṅga, rupeś ṭhākur prasād prakāśan, kacauḍīgalī, vārāṇāsī ヒンディー語版、梵語版など。
注 08 「インドの死生観」 宮元啓一 2022
注 09 「ウパニシャド全書第三巻」 宇井伯寿訳 1924、「ウパニシャド全書第一巻」 高楠順次郎訳 1924
注 10 「往生要集」 中村元 1996 には、「二趣、三趣、三悪道などの順付けを経て、五道が成立したのは原始仏教教典においては、かなり後のことであり」「六道は、原始仏教教典には現れない」との記述がある。五道が成立した原始仏教教典名は書かれていない。
注 11 「中国仏教初期における生死と輪廻について」 河野訓 1993
注 12 Skandmahapuran の Kāśīkhaṇḍa 校訂出版 1950
注 13 「お盆と盂蘭盆経」 柴崎照和 2006
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