見出し画像

組織における「寂しさ」にどう向き合うか


先日、クライアントインタビューにおいて、

「昔は社長といっしょに案件をワイワイ進められていたのに、今は距離ができてしまった気がする。過去と比較して今は変化していかないといけないのはわかる、わかるけれど、自分は寂しいんだと思う」

と言ってくれた人がいて、強く心を揺さぶられた、ということがありました。

そうか、確かに「寂しい」という感情が、考えてみると組織にはたくさんあるんだ、とハッとさせられました。

組織には「寂しさ」があふれている。

組織に向かい合っていると「私たちは変化しなければいけない」という言葉をよく聞きます。いや、逆に聞かないときはありません。「変化しなくていい」なんていう時はなくて、常に変わっていくものだからです。

経営としては、変化に対応すること、あるいは、意図的に変化をしていくことはマストです。

事業が伸び、人が増え、影響力が拡大していく。これは喜ばしいことです。数字がすべてを癒す、という言葉があるように、拡大・拡張はポジティブな変化として捉えられることが多いです。
拡大・拡張は(経済活動を行う)組織の宿命とも言えるし、不可避なものとも言えます。現状維持が一番難しく、シュリンクはもっと難しい。

いっぽうで、そこには同時に「寂しさ」が生じてしまうものです。

冒頭のインタビューでもありましたが、これまで、組織の成長にともなう組織変革プロジェクトにさまざま関わってきましたが、こんな声を聞いてきました。

かつては少人数で一体感があって、何でもみんなで乗り越えてきたのに、いつの間にか人が増え、組織の形が変わり、部署ができて、それぞれで回るようになり、会社としての一体感を感じづらくなった。

かつては、社長が現場に出て直接指揮を揮っていて、その姿にみんな憧れていたけれど、いつの間にか社長は経営に専念するようになり、現場と話す機会が減ってしまい、遠い存在になってしまった。

・・・など、組織としては喜ばしいとも言える成長にともなう変化にも、いわば影のように「寂しさ」が発生してしまう。

「寂しさ」は悪いものなのか?

長らく、日本においては「感情」というものが軽視されてきたように思います。組織の中で「感情的になる」とか「感情に流される」というのは良くないものだとされてきました。

もちろん、感情に流されて判断を見誤ったり、冷静さを欠いて最善手を打てなかったり、ということは避けたいものです。
しかし、行き過ぎて「感情そのもの」に蓋をしたり、「感情」というものをないことにしたり、というコミュニケーションが組織で主流になったときに、働きづらさが生じることもあるのではないかと思います。

結果的に「感情」を引き受けるのが中間管理職・ミドルマネージャーだけになってしまって、マネージャーが疲弊してしまったり、逆に自分の感情を押し殺した結果、メンタル的に問題を抱えてしまったり・・・という事態も引き起こされたりしています。

人間はまだまだたぶんに「感情」の動物であり、感情とうまく付き合うことは課題として残っています。そういうなかで、「寂しさ」を含めて感情を「ないもの」として扱うことの不自然さはあるんじゃないかと思います。

「寂しさ」は構造からも生じる

「寂しさ」は組織の変化だけではなく、構造からも生じると思います。

これまでクライアントに伴走する中で、こんな声を聞いてきました。

人が増えて職能が増えていく中で、自分がやっている仕事を承認される機会がない。仕事の全体像も見えない。自分はなんのために仕事をしているのだろう。ちゃんと評価されているんだろうか?

数字を上げ、売上に貢献する部署は称賛されるけれども、自分たちのような会社を支える部署がいなければ会社は回らないのではないか。それなのに、まるでなぜ私たちは軽視され、コストのように見られるのか。

「分業」には、もちろんポジティブで合理的な意味があります。目的や規模に応じて適切に組織を作り直していかないと、負担が集中し、情報は混乱し、運営が破綻してしまうからです。

しかし、そのポジティブな目的のもとで行われた構造的配慮においても「寂しさ」は生じてしまうということがわかります。

人は社会的動物であり、社会的に承認されることが、生存を約束することにもつながっています。逆に、社会的に承認されないと、生存を脅かされるような不安に陥ってしまいます。

この「承認感覚」が持てていないことが、「組織課題」というものの根底にあるというケースは非常に多いように感じますし、組織に限らず、昨今の国際情勢であったり、社会問題であったり、そういったものの根底にあるような気もします。

そもそも、組織開発や組織デザインといった施策は、組織運営への合理的な意義もありますが、変化に際して個人と組織との感情的な関係を結び直す、という役割も持っているものだと思います。

もちろん、言うは易く・・・というところもあり、人というものを相手にする個別の難しさがずっとつきまといますが・・・。

組織と個人では、視点や時間軸が異なる

新しい施策の導入、組織の組み換え、新しい理念の発表など、「組織」という主語で見ると、合理的で必然性のある変化はたくさんあります。

組織主語ではポジティブな変化であるはずなのに、個人主語だと「受け入れがたい」という感情となり、ハレーションとして表出する、ということはよくあります。

もちろん時間が経てば、「あのときの変化は必然だった」とわかってもらえたり、変化してしまえば、なんの違和感もなく受け入れられる、ということはあります。
でも、変化のタイミングにおいて緊張が生じてしまうのは、なかなか避けがたいものがあります。

それはおそらく組織と個人で、見ている視点や時間軸などが違うことからくる現象なのかなと思います。

会社などの組織はやはり社会的な存在で、持続的に価値を発揮していくために、どちらかというと全体最適で長期的な視野を持って意思決定されることが必要です。
いっぽうで、人間は感情を持つ存在であり、そして「変化する瞬間」というものを嫌います(たとえその変化が良いものだとしても)。頭ではわかっているのに、変化することに心が追いつかない、ということもあります。

このような視点や時間軸の違いがあるなかで、気がつくといつの間にか、個人と組織とのあいだに心理的な溝ができている・・・ということが、「寂しさ」という感情の生じる一つの要因なのかもしれません。

組織は「寂しさ」にどう向き合うのか

組織が変化しようとするとき、そこに個人の「寂しさ」が生じてしまうのは、もう仕方がないというか、自然な現象なのだと思います。

ただ、これまでそういった「寂しさ」というようなものは、取るに足らないというか、あまり問題にされてこなかったようにも思うのです。

しかし、あらためて人生100年時代にあって、個人と組織との関係性が見直されてきたり。社会の変化の中で、一人ひとりが人生の意味を見出すことの大事さと難しさに直面したり。会社の経営が市場のゲームをどうプレイするかを迫られる難しさに直面したり。

こういった複雑性の中で、ケアされない「寂しさ」が多く発生し、それがいつの間にか大きな溝を作ってしまう・・・ということは、静かな社会問題になっているようにも思います。

組織変革・組織開発に関わるたびに、この、組織の変化の影で生まれる「寂しさ」をいつも感じます。「寂しさ」を癒やすことは簡単ではないし、もしかすると完全に「癒やす」ことは不可能なのかもしれません。

ただ、組織がポジティブな変化をしていく中でも「寂しさ」が生じるとしたら、ないものとして無視したり、悪いもの、として切り捨てるのではなく、まず、その存在にみんなで気づく、認める、受け止める・・・というところから、考えを始めてみてもいいんじゃないでしょうか。

私も引き続き、探究を進めていこうと思います。



今年はMIMIGURIアドベントカレンダーに参加できなかったので、MIMIGURIの宣伝を少し。

MIMIGURI代表の安斎さんの新著冒険する組織のつくりかた「軍事的世界観」を抜け出す5つの思考法の予約が開始されています。

今回の安斎さんの新著ですが、個人と組織の関係性が変わっていく中で、組織のありかたは「軍事的世界観」のままでいいのか、という問題意識のもと、個人と組織との関係性を考えるうえでも思考を大いに刺激してくれると思うので、ぜひ手にとってみてください!

最新刊『 #冒険する組織のつくりかた 「軍事的世界観」を抜け出す5つの思考法』発売決定!刊行記念ウェビナーを開催します。より


いいなと思ったら応援しよう!