八木勇樹選手引退に寄せて
2007年全国高校駅伝。その年代のエース達にとって受難の年だったと言っていいだろう。女子最強選手、仙台育英の絹川愛は腰痛のため欠場。女子優勝候補の一角、岡山興譲館のエース前田美江も故障により欠場。男子優勝候補筆頭の世羅のエース鎧坂哲哉に至っては大会前日に疲労骨折が判明。世羅は大会前日の開会式で返還した優勝旗を取り返すどころか優勝戦線に絡むことさえできなかった。男女合わせた12区間で、3年生の区間賞ゼロ。前代未聞の事態と言っていいだろう。男子優勝候補西脇工のエース八木勇樹も大会一週間ほど前から原因不明の発熱を起こし、大会当日も点滴を受けていた。男子一区、八木選手は外国人留学生選手の集団に付かず、豊川工三田裕介率いる日本人集団の後方に位置していた。しかし、5kmを過ぎて集団から少しずつ遅れ始める。NHKアナウンサーが「西脇工が遅れ始めました!」と驚いたように中継し、解説の宗茂が「苦しいんでしょうね」と静かに対応していた。八木選手は顔面蒼白になりながら集団の後方でもがいていたが、少しずつ集団から落ちて行った。結果は1区10位。記録は30分13秒。1990年台、レースの中終盤で逆転していた頃の西脇工ならば、まずまずのすべり出しだと評価される順位だったかもしれない。優勝した仙台育英の一区通過順位が14位だったのだから、八木選手の走りは失敗とは言えない。しかし、この年の西脇工は一年生を長距離区間の3区に起用しなければならないほど層が薄かった。八木選手が一区で区間賞を獲ることが、西脇工優勝の絶対条件だったのだ。八木選手の凡走により、西脇工は優勝を逃した。西脇工ファン、兵庫の陸上関係者の期待に応えられなかった。各種陸上競技雑誌は、八木選手を西脇工敗戦の戦犯と書いた。翌年から外国人留学生が1区を走れないことが決まっていたのだが、国体5000mで留学生選手を破り優勝した八木選手には、1区で日本人が外国人留学生を破り区間賞を獲得することを期待されていたのだが、それは永久に叶わぬ夢となってしまった。
もしも八木選手が、高校駅伝1区で3位や4位といった成績だったなら、藤井周一や北村聡といったそれまでの西脇工のエースと同じように、私にとって箱根駅伝や日本選手権に出場しているのをたまたま目にすれば応援するといった程度の選手となっていただろう。しかし高校駅伝1区の、虚ろな目で顔面蒼白となり、もがき苦しむ走りを見て、この先もこの選手の走りに注目していきたいと感じた。彼の試合をずっと応援していくことになったのだが、それは溜息をつくばかりの年月であった。八木選手本人の落胆の方が遥かに大きかったろうが、彼が高校を卒業してから競技を引退するまで、皆が満足するような走りをすることは遂に一度もなかった。それだけ八木選手に対する皆の期待が大きかったのである。
八木選手の競技結果のハイライトとしては、出雲駅伝3区区間賞、関東インカレ1500m優勝、全日本実業団駅伝2区日本人歴代最高記録、金栗記念選抜中・長距離熊本大会5000mなどが挙がることになるのだろう。しかしそのいずれも、終盤に多少身体が動いたかなという程度で、満足できる走りとは程遠いものだった。 全日本実業団駅伝2区など、インターナショナル区間とはいえ17人ものランナーに抜かれている。ケニアやエチオピアの選手と互角に戦うことを我々は八木選手に期待していたのだ。本人にとっても100%満足な走りであったはずがない。日本人歴代最高記録などという但し書きには何の価値もない。どうでもいい話だが、2区日本人歴代最高記録は小島忠幸選手の23分14秒ではないかという指摘もある。八木選手は早稲田大学3年時に箱根駅伝で優勝している。9区を担当し先頭でタスキを受け取り10区に先頭でタスキを渡したが、2位だった東洋大学には20秒ほど詰め寄られている。早稲田は優勝し、そのメンバーや関係者の喜びが爆発する中、八木選手は不甲斐ない走りしかできなかったことで疎外感を感じ、自分の走りはチームにとってむしろ足手まといだったのではないかと感じていた。そもそも箱根駅伝往路で起用されなければならない選手であり、9区を担当するのであれば
当然区間新記録を出して東洋大学を突き放すのが最低のノルマであったはずだ。はっきり言おう。応援している我々の目からみても足手まといの走りであった。
不本意な走り、不本意な結果が続く状況で、よく10年間以上も競技を続けられたなと心の底から思う。自分の思い描く理想の走りを実現できないことに何度も何度もがっかりし、こんなはずじゃないと本人はずっと思っていたことだろう。応援している我々も、試合が近づくと今度こそ真価を発揮してくれるはずと期待に胸躍らせ、試合が終わると不満足な結果に毎回がっがりしていた。一方、そんな期待と落胆を繰り返しながらも、たとえ試合結果がどうであろうと八木選手が走る姿を見せてくれるだけで嬉しく感じたものだ。八木選手は中本健太郎選手や川内優輝選手のようにずっと走り続けるのだと勝手に思っていた。オリンピックで金メダルを獲得し、金メダリストとして全国都道府県対抗男子駅伝に出場し、栄光のゼッケン28を先頭でゴールに運んでくれることを夢見ていた。その夢が叶うことはもうないが、そんな大きな夢を10年間以上も見させてくれたことにとても感謝している。