日本人の「フィリピンへの関心度」はこの40年でどう変わったのか?
「日本人の『途上国への関心度』はこの40年でどう変わったのか?」に続く第2弾。今回はフィリピンだけを抜き出してみました。ganas編集長(1970年生まれ)の独断と偏見で、フィリピンに対するイメージの変遷を整理してみました。
【1980年代】
・ボルテスV(70年代?)がフィリピンで人気を博す。フィリピンで日本アニメの象徴と言えばこれ。僕はフィリピンにかかわるまで、ボルテスVを知らなかった。いずれにしろ、日本のアニメが昔から人気なのは嬉しいこと(アジアの他の国ではやっぱりドラえもん! 日本語のドラえもんのテーマソングをタイ人などと一緒に歌ったのは懐かしい思い出)。
・三井物産の若王子支店長の誘拐事件。「フィリピン=危ない」というイメージを定着させた事件になったのかもしれない。当時の駐在員の典型的な行動パターンが「ゴルフ場⇒マカティ・パサイロードのカラオケクラブ」。この道中で若王子支店長は誘拐されたと聞いた。
【1990年代】
・テッド・イトウが歌う「Ikaw pa rin」(徳永英明の「最後の言い訳」)が空前の大ヒット!! 英語、タガログ、セブアノなどのバージョンがあったように覚えている。こんな生き方をする日本人がいるんだ、と一種の憧れに。
・ただマニラにはまだ、日本を捨てたような日本人が少なからずいた(もっと前から)。彼らはいま何をしているのだろう。僕の一番仲良かった知り合いはエレベーターの中で倒れ、そのまま亡くなってしまった。
・玉置浩二主演のドラマ「フィリッピーナを愛した男たち」がおもしろかった(最後のシーンが圧巻!)。また、課長島耕作では島がマニラに赴任。一掃式の洗濯機(脱水機能を省いて低価格で売る)の話が印象に残っている(島が住んだコンドミニアムに自分も住もうかと思った)。さらに、ルビー・モレノがまずまずの人気者になり、唐沢寿明主演の連ドラ「愛という名のもとに」にも出た。フィリピンウォッチャーとしては嬉しかった。
・フィリピン人の間で「日本食」といえば、マカティコマーシャルセンター(現在のアヤラセンター)にあった「サイサキ」! この店名の意味を何度聞かれたことか。説明が難しかった。富裕層の間で日本(憧れの国だった?)はブームだったと思う。
・フィリピン人が経営する日本食レストランで「マンゴーの寿司」を初めて食べた! たぶんセブの「ギンザ」だったか。
・マニラ在住の日本人が通う日本食レストランと言えば、パサイロードとUNアベニューにあった「焼肉さくら」。ここは普通においしかった。あとは、パソンタモとブルゴスにあった「新宿ラーメン」。パソンタモに居酒屋「きくふじ」ができたときは「こんな店がほしかったんだ」と駐在員の間で話題に。当時はさくらグループ(さくら2店舗、きくふじ2店舗、もう1つすし屋が)の絶頂期?
・マニラで暮らす日本人にはまだまだ若者が少なかった。昭和40年代生まれの会みたいのが立ち上がって、1回ぐらい顔を出したような。
・このころはセブにいても、日本人はめったに見なかった気がする。
【2000年代】
・日本食レストランがだいぶ増えてきた。きくふじの客層もフィリピン人がメインになっていく。フィリピンの富裕層・中間層が増えたことを実感。
・日本国内ではフィリピンパブがどんどん増えていき、手ごろに「南国の陽気さ」を味わえると人気に。日本人&フィリピン人のカップルも増える。ただその後、エンターテインメントビザの厳格化でフィリピンパブは減っていく。ひとつの時代が終わった。
【2010年代】
・英語留学に来る日本人が激増! これには驚いた。
・とくに日本の大学生がこぞってフィリピンに。僕の学生時代(1989~1994年)には考えられなかったこと。
・フィリピンに住む日本の若者も急激に増えた。かつてとは異なる「日本人とフィリピン人のカップル」も普通に。
・物価がどんどん上がり、マカティでちょっとしたご飯を食べると、日本よりも高くなった。日本の経済力の低下を感じる。マニラはもはや、日本を逃れたアウトローが集まる場所ではなくなった。
【2020年代】
・フィリピンに日本の学生は戻るのか?
・フィリピンと日本の経済格差はどんどんなってくるのだろう。