「キャラ」「感情」、そして「常識観」で演じる。
『ソウルフル・ワールド』と『ドクター・ドリトル』を観ました。
『ソウルフル・ワールド』は文句なしにオールタイムベスト級の大傑作のCGアニメーション!!! 『ドクター・ドリトル』の方もロバート・ダウニー・Jr演じるドリトル先生以外はほぼほぼCGの動物たち、なのでどちらも声優さんが大活躍で、字幕版と吹替版を聴き比べるとさながら日米声優対決wで興味深かったのですが、字幕版のアメリカ人の声優のパフォーマンスと、吹替版の日本人の声優のパフォーマンス・・・ある意味真逆のアプローチをしているなと気づきました。
日本の声優が人物を「キャラ」でファンタジックに演じてるのに対して、 アメリカの声優はもちろん「キャラ」もなんですが、それ以上に人物を「人種」「階層」「ジェンダー」「何を信じてるか」など現実世界でのリアルな人間観察をベースに演じているんですね。
最近のアメリカ映画は「人種」「ジェンダー」「宗教」「経済的格差」などによる分断と対立をテーマとする作品が多くて・・・なぜならいま彼らが一番心を痛めているのはこのテーマだから、むしろそれらが描かれないことの方が少ないくらいで、だからたとえばお気楽な恋愛映画とかでも脚本の段階でこれらの問題にからめて人物設計がされています。(というかココを配慮しないで偏った設定で作ると叩かれる)
なので当然俳優や声優など演者も、そのあたりをしっかりと演じ分けることが出来ないと仕事にならないわけですね。生半可な知識や思い込みで演じてしまうと、その演技自体が「偏見」や「差別」そのものになってしまうわけですから。ここらへん、日米の俳優声優事情が大きく違っている点でしょうね。
今回の「でびノート☆彡」はこの『ソウルフル・ワールド』と『ドクター・ドリトル』の日米声優対決というかw、日米の声優さんの役作り・人物造形の方法の違いについて書いてみようかと思います。
『ドクター・ドリトル』・・・大好きなロバート・ダウニー・Jrの近況を知りたいくらいの感覚で観たのですがw、お昼を食べながらだったので最初は吹替版で観てたんですよね。そしたら喋る動物たちがわんさか出てきたあたりで何が何だか分からなくなってw。いや実際どの声がどの動物の声なんだかさっぱり分からなくなったんですよ。会話がキャッチボールにならない状態でワーワー進んでゆくんです。(これたぶんコロナ関係で声優さんたちがひとりひとり別録りになってるせいもあるとは思います)
銃で撃たれたリスをドリトル先生が手術するシーンで、ドリトル先生が助手のアヒルのダブダブに「鉗子を取ってくれないか」と言うと、ダブダブがなぜかセロリをドリトル先生に手渡すんですよ。でドリトル先生が「それはセロリだろ、鉗子をくれ」と何度言ってもダブダブはしつこくセロリを差し出してくるというくだりがあるんですが、日本語版ではこれが「ボケとツッコミ」みたいなテンションの声で演じられていて・・・いやいや、目の前でいま可哀想なリスが死にかけてるのに!このアヒルバカなの?それとも性格が悪いの?って感じで見てて超イライラしたんですよねー(笑)
で、我慢できなくなってこのシーンの頭まで巻き戻して、吹替版から今度は字幕版に切り替えて、でこのシーンを英語で見返してみたんですよ。そしたらセリフの内容は同じなんですけど、印象がまったく違ったんです。
字幕版ではダブダブは別にバカじゃないんです。性格も悪くない。
ダブダブの英語版の声優さんは「黒人家庭の大家族を仕切ってるおかあさん。もしくは黒人教会のゴスペルシンガー」みたいなイメージをダブダブにまとわせているんです。 英語版のダブダブは野次馬的に騒がしいわけではなく、じつは彼女はみんなの面倒をみているつもりなんですよ。「みんな安心しな!あたしが面倒見てあげるからさ!」って感じで、この場を自分が仕切らなきゃ!という責任感がある。だからいつも自信満々で、みんなを元気づけたり、リーダーシップを発揮しようとしているわけですね。
だから日本語版では単に騒がしい押し問答だったセロリのシーンも、英語版では活き活きしたユーモアがある。ダブダブがセロリを差し出すのは「あたしに言わせりゃここはセロリで決まりだね!どうだい?使いな」なんですよ。そのニュアンスがあるからドリトル先生は反論できずに、むしろ気を使って「いや、鉗子を頼むと言ったんだが」みたいになる。ダブダブは先生のそのリアクションの意味が理解できないから「そう?じゃあこの小さめのセロリはどうだい?」になり、また違うと言うと「わからん子だね。じゃあわかった。このニンジンでどうだい?」になり、またまた違うと言うと「じゃあこの特大のセロリでどーだ!」になるんです。ドリトル先生は降参して「自分で取るよ」と言うw。・・・ようするに英語版の方が日本語版よりも先生とダブダブのコミュニケーションのディテールが豊かで明確なんですね。圧倒的に観客に伝わる情報量が多い。
これって日本語版の声優さんが「キャラ」と「感情」で演じているのに対して、英語版の声優さんの演技が「キャラ」と「感情」にプラスして、その役がもっている「常識観」に重きをおいて演じているからこそ出てくるディテールなんです。
ひとは自分の常識外のことが起こるとビックリするし、自分の常識と真逆の行動をする人間をなかなか受け入れたがらないじゃないですか。だから感情の上がり下がりのポイントが明確になって、会話のニュアンスがディテールアップするんですね。
これは他の動物たちでもそうで、たとえば犬のジップは英語版では「育ちのいいインテリ青年」っぽく演じられているのに対して、日本語版では「BLっぽいイケメン声」で演じられています。
オウムのポリーは英語版ではロッテンマイヤー先生かメリー・ポピンズみたいな「上流階級の執事みたいな厳しさのある真面目で聡明な女性」っぽく演じられているのに対して、日本語版では単に「やさしいお姉さん声」で演じられている。
ダチョウのプリンストンは英語版では「ナイトクラビングが好きそうなジェンダーレス男子」っぽく演じられているのに対して、日本語版では単に「ボヤキが多いダチョウ」で演じられてる。
リスのケヴィンは英語版では「怒れる労働者階級の黒人男性」っぽく演じられてるのに対して、日本語版では単に「凶暴なリス」で演じられています。
「キャラ」や「感情」だけでも人を演じることはできるのですが、そこに「常識観」が加わると会話の食い違いのパースペクティブ(遠近感)がハッキリして、それこそたくさんの人がワーワー会話していてもどれが誰の声か分からなくなったりしません。 それどころか、彼らがワーワーやっているそのシーンが「我々の生きているリアルな世界の縮図」となるのです。
ピクサーの映画はいつもファンタジーの形を借りながら、まさにリアルな世界の縮図を描いていますよね。『トイ・ストーリー』も『モンスターズ・インク』も『ファインディング・ニモ』も『カーズ』も、そして最新作『ソウルフル・ワールド』も。
『ソウルフル・ワールド』のデフォルメされつつもあまりにもリアルなビジュアル表現の美しさにはホント驚きましたが、声優さんの演技も「デフォルメされつつもあまりにもリアル」な演技をしていました。そう、リアルにデフォルメがかかっているんです。 主人公ジョー・ガードナーの声を担当したジェイミー・フォックスは、アンダーグラウンドなジャズの世界で生きる黒人アーティストの喜怒哀楽をリアルにかつ活き活きと演じています。
そんな『ソウルフル・ワールド』でボクが特に印象的だったのは理髪店の店長デズの声の芝居・・・もともと獣医になりたかったのに娘を育ててゆくために床屋になったデズの、いまは理髪の仕事に自信と誇りをもってお客を喜ばそう、楽しませよう、そしてお客と人生のすばらしさを共有しようとするさまが、客と会話する声の演技のディテールの中にあふれていました。ジェームズ・ブラウンなどさまざまな黒人エンターティナーの伝統的な喋りをベースにしたパフォーマンス、見事でした。
そう、まさにこの映画のテーマはこの英語版のデズの演技が体現していると言っても過言ではないですよね。(ちなみに日本語版のデズは単純に身体がデカそうな低い声でスギちゃんっぽくディテール0で喋ってました。泣けるシーンなのに!残念)
キャラを演じるとなると若い声優さんたちは「いい声」を「特別な声」を出そうとしがちです。でもそんな風に非日常的な声で「キャラ」や「感情」を演じることは、いまの時代において正直ボクには無力に感じます。古いんです。
『ソウルフル・ワールド』を見ればわかる通り、現代的なテーマを声で表現しようとするときに、声優さんは非日常的な「特別な声」とは真逆の超日常的な「リアルなディテールに溢れた声」で演じています。
自分が演じる人物を面白おかしく非日常的に演じるのではなく、その人物が実際にはどんなコミュニティーに生きてどんな「常識観」「人生観」で生きているのか、その生々しいリアルをベースに、画面上で起きる物事に瑞々しく反応しながら演じてゆく。・・・それが『ソウルフル・ワールド』のような衝撃的にリアルなディテールにあふれた現代的な芝居が出現させるのだと思います。
「キャラ」「感情」を演じるだけでなく、人物の「常識観」を演じてみる・・・一度おためしあれ。
小林でび <でびノート☆彡>