見出し画像

『スパイの妻』のディスコミュニケーションする芝居。

『スパイの妻』・・・ひさびさの「徹底的に空気が読めないヒロイン」を堪能しましたw。
黒沢清監督作品はいつもそうなんですが、人と人が恋人同士で会っても親友同士であっても夫婦であってもけっして分かり合えない・・・相手の実態が謎のベールに包まれている。そこが黒沢清映画の人物の魅力だと思うのですが、この作品の主人公夫婦、聡子と優作の関係も仲の良い夫婦でありながらディスコミュニケーションに満ちていました。

いや、この『スパイの妻』、ヴェネツィアで銀獅子賞を獲ったし、周囲で観た人の評価も高かったので、劇場で観ねば!とは思ってはいたのに、なぜこんなにも見るのが遅れてしまったのかというと・・・正直、予告編のあの大昔の日本映画っぽいセリフ回しに引いてたからなんですよね(笑)。あ~またそういうマニアックな楽しみしちゃってー、しかもヴェネツィアの人達もホント古い日本映画好きねーwとか思って敬遠していたのです。

で観てみたら・・・結論として、あのセリフ回しは全然大丈夫でした。「こういう定型的な会話の奥には、なにか別の本心があるのでは?」と観客に感じさせる仕掛けとして機能していて・・・そうですね、例えるならば黒沢映画に昔からよく出てくる「半透明のビニールカーテン」とか「扉」とかと同じで、観客に「その向こうにも世界が広がっている」ことを感じさせる効果として使われているんだなと。
やっぱり黒沢監督だなあ!と、なんだか感心してしまいました。

画像1

黒沢清監督の映画の会話シーンっていつも独特の雰囲気がありますよね。
人と人とがコミュニケーションしながらも、いまひとつ分かり合えていない感じ。不穏なんですよねー。『スパイの妻』ではその不穏さ自体が推進力となって観客をグイグイと作品世界の中に引き込んでゆきます。

蒼井優さん演じる妻:聡子があまりにも世間知らずというか空気が読めないんです。スパイの容疑をかけられて日本から上海に逃げるイギリス人の友人に対して無邪気に「共同租界ですか?ステキ」と上海の外国人居留地に行くことをうらやましがったり(笑)。妻:聡子から見えている世界は、夫:優作から見えている世界とはちょっと違っているんですよね。それがさらに優作が仕事で満州で日本軍の「悪魔のような所業」を観てしまったことによって優作に変化が起こり、さらにふたりの世界認識は溝を深めてゆくんですね。

そんな夫を「スパイになってしまったんだ」と思いこんだ聡子が、自分もスパイになることによって夫との溝を埋めようとする・・・という切なくも頓珍漢な物語がこの『スパイの妻』という映画なんですが。そんなヒロイン聡子が魅力的なんですよね。彼女の思慮の浅さにむかつく人もいるかもなあとは思うのですがw、ボクは大好きです。

というわけで妻が自称スパイ活動を頑張れば頑張るほど、夫を追い詰めたり困らせたりする。でも妻は「夫が困っているのはきっと何か別の理由があるに違いない!」と浮気の心配をするw。夫婦の温度差というか、ディスコミュニケーションが推進力となって物語が進んでゆくんです。
黒沢監督の映画は基本、人物のアップのショットで心情を観客に説明したりしないので、妻がわからない夫の心情は観客にもわからないんですよね。引きのショットに映っている「反応」で判断するしかないので、夫がどんどん謎の人物になってゆく・・・これがサスペンスを生むんですね。

画像2

画像3

画像5

画像5

いやディスコミュニケーションと言っても、2人の人物が各々バラバラに自分勝手な芝居をしてるわけではないんですよ。この映画が素晴らしいのは、この夫婦のコミュニケーションが嚙み合わないという意味において面白い芝居が成立してるという事なんですよね。

お互いにコミュニケーションしようとしているんです。でも噛み合わない・・・これはつまり夫婦の間に「世界の認識の食い違い」があるせいで、つまり「バカの壁」があるせいでどうしてもディスコミュニケーションしてしまうという構造なんですね。

優作と一緒に満州に行って地獄を見てきた優作の部下:文雄に聡子がこう言われるシーンがあります。「あなたは何もわかっていない。あなたは何も見なかった。あなたにはわかりようもない」・・・これこそが夫婦の間に横たわる最大の「バカの壁」の正体で、この壁越しに演じる蒼井優さんと高橋一生さんは、日々を仲良く過ごしながらも延々とディスコミュニケーションし続けているのです。なんと切ない物語なんでしょう。

このディスコミュニケーションしながら芝居をバラバラにしない、というのが結構難しいのだと思います。女中の駒子とか草壁弘子とかはやはり演技が内向してしまったせいで、台詞が誰に向かって何のために喋られているのかがあいまいになって、シーンから浮いてしまっていましたね。ディスコミュニケーションするだけでなく芝居もバラバラになってしまっているんです。
蒼井優さん、高橋一生さん、そして笹野高史さんあたりは相手としっかり繋がりながら、見事にディスコミュニケーションしていました。笹野さんのシーン、よかったなあ。

そうそう。YouTubeにこの映画のメイキング映像がひとつ上がっているんですが、これと実際に出来上がったシーンを見比べてみるとちょっと面白いんです。

メイキング映像ではそこそこコミュニケーションが取れているように見えるんですよね。ところがこれに編集が入ってアップのショットが挿入されたり、夫の表情を見せないアングルからのテイクを長く使ったりすることで、完成バージョンでは芝居の中にあるディスコミュニケーションがより強調されているんです。

普通はその逆、コミュニケーションが上手くいってない芝居を編集でコミュニケーションさせたりするのがモンタージュだと思うのですが(笑)、この映画はモンタージュによって違和感を意図的に演出している。

完成バージョンではこのシーンの後半、優作に髪をなでられて、その手に自分の手をかさねた聡子の表情の変化をずーっとカメラは追っています。一見仲睦ましく見えるんですが、優作が聡子を説得しようと喋ってるあいだ、じつは聡子はなにか別のことを考えている・・・この不穏さが、なにか間違いが起きるのでは?という感覚が、観客を先へ先へとグイグイ引っ張ってゆくのです。

画像6

画像7

画像8

そして物語は色々色々あって結局、夫:優作は妻:聡子を置いて海外に脱出してしまいます。聡子はそれを知って、「お見事です」と叫んで卒倒、そして精神病院へ・・・。そして神戸も空襲に遭い、病院から脱出する患者たち・・・ここで聡子は空襲に遭った街の様子を見てショックを受ける。そして海岸でひとり泣き叫んで暗転、スタッフロールなわけですが・・・。

黒沢清監督作品って難解に受け取られるものが多いと思うのです。今回の『スパイの妻』もネットの感想とかを読むとけっこうそれで、空襲から浜辺で号泣するくだりをイメージシーンだと捉えている人がけっこう多いみたいです。
確かにあの精神病院を出て空襲の中をゆっくり歩くシーンで聡子のこの映画で一番の大アップの聡子の表情カットが出てくるのですが、これがまた無表情で意味がわからないんですよね。聡子が何を見ているのか、何を感じているかを、例によって黒沢流に半透明のビニールに包むような表現で隠してしまっているんです。この聡子の心情が観客にとって何だか伝わらないので、その次のカットの浜辺の号泣の意味もわからない。それでイメージシーンだと思われてしまうのでしょう。

そう、一般的に映画では顔のアップのショットは表情を観客に見せるためのもので人物の心情を説明するために使われるのですが、黒沢清監督の映画では顔のアップのショットは表情で心情を説明しようとしないんです。無表情であったり、不思議な表情であることが多く、それによって観客がこの人はいま何を感じているのだろうか?と考えさせる、人物の次の行動に興味を持たせるために使われることが多いのです。「半透明のビニールカーテン」そして「扉」ですよね。

ではあの聡子の大アップのカットで、無表情で表現されていたものは何だったのか・・・。

画像9

画像10

この大アップの無表情カットの間、ずーっと背景で流れている音は・・・女たちの阿鼻叫喚の悲鳴です。その前のカットで精神病院から脱出した女性患者たちの悲鳴かもしれません。とにかく女たちが燃えて死んでゆく様子を聡子は見ているのでしょう。

それは夫:優作が見たと言っていた戦争の「悪魔のような所業」であり、それをついに妻:聡子も見てしまった。「あなたは何もわかっていない。あなたは何も見なかった。あなたにはわかりようもない」といわれていたその光景をついに聡子も見てしまった。そして聡子は自分が優作の気持ちをこれっぽっちも理解してあげていなかったことに気づいてしまうのです。

聡子は、優作が満州で観た「悪魔のような所業」に対するショックに共感して、彼と心を一つにしてスパイ活動をしていたつもりだったのに、いまはじめてその光景と同等の光景を見て、いかに自分が優作と同じものを見ていなかったのか、いかに気持ちが一つになっていなかったのかを知るんです。
だから自分は日本に置いてゆかれたのだ!ということを聡子が悟るんですね。ようやく優作の気持ちを理解する・・・だから次の浜辺のシーンで聡子は号泣するのです。

この映画は、聡子と優作のディスコミュニケーションを映画一本分まるまる使って解決してゆく物語だったのです。

浜辺で号泣する聡子を映していたカメラが空に向かって動いてゆき、そこでテロップが入ります。「戦争が終わった翌年、夫の死亡が確認された。」「その死亡報告書には偽造の形跡があった。」「そして数年後聡子は渡米する。」・・・これは黒沢監督の優しさですよね。
せっかく映画1本分の時間をかけて解決したディスコミュニケーションを、わずか数行のテロップで全てひっくり返し、聡子の衝動を暗示することで未来へのほのかな希望と、さらなる混沌を観客の心の中に湧き起こしてポンと終わる。

いやお見事。最高に楽しめました。

画像11

画像12

画像13

しかしなぜあの聡子の大アップのカットを内向した無表情にしてしまったのか。せめて目の焦点をもっと遠くに合わせてくれていたら、彼女の意識が海の向こうの優作に向かっていたことがもっと伝わりやすくなっていたと思うのですが、まあ精神の病を考えるとあの演技になるんでしょうかね。

フレームの外の世界を明確に表情で見せてくれていたらもっと衝撃的に切ないラストになったのではないかとボクなんかは思ってしまうのですが、そこはきっと「半透明のビニールでつつむ」黒沢流なのでしょう。

黒沢清監督作品の演技はまだまだいろいろ謎が多くて・・・だってあれだけ伝わりやすい芝居をする役所広司さんですら、黒沢作品に出ると謎だらけの人物になってしまうのですからねw。ボクはじつは『ドッペルゲンガー』の大ファンなんですよねー。そのあたりもいつか書いてみたいと思います。

長文に最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。

小林でび <でびノート☆彡>




いいなと思ったら応援しよう!