曖昧な記憶の曖昧な私――『アビリティ 特殊能力を得た男(字幕版)』Prime Video
アビリティ 特殊能力を得た男(字幕版)を観る | Prime Video
役者も地味、展開も地味、低予算の地味な映画だが、主人公の正体に段々迫っていく過程には迫力があった。
原題は DOE で、英語で John Doe と言えば、日本名で「田中一郎」みたいなもの。どこにでもいる人、名もなき人を表わす。
ちなみに私の本棚には田中一郎先生の『ガリレオ裁判』という岩波新書が並んでいる。およそ至るところに「一郎くん」はいるのだ。
主人公ジョンはある日、公園のベンチで目を覚ます。記憶をすっかり失っていたが、かれには数百もの言語を使いこなす異常なまでの能力(アビリティ)が与えられていた。それを買われ、8年後の今は大学で言語学を教え、家族もいて、同僚や友人にも恵まれている。
そんなジョンのもとに、かつての自分と同じように記憶を失い、なぜか天才的な数学の才能を開花させた浮浪者がやってくる。調べてみると同様の人間が全米に何人もいて、皆んな最後は自殺を遂げていることが判明する。
ジョンもまた精神と身体に次第に不調を感じるようになり、追い詰められてゆく。自分の正体は誰だったのか?
突っ込みどころは多々あって、ちょっぴり脳の手術をしたぐらいで、数百もの言語を使いこなせるようにはならないし、数学者も思いつかないような証明ができるようにもならない。誰もが感心する絵画を突然描けるようにもならないだろう。専門性にたいする理解の浅さが物語から説得力を奪っているのは事実である。
てっきり宇宙人の仕業か?と思っていたので、医療会社の陰謀だったと判明してガッカリさせられた。
あたかも『ブレードランナー』のレプリカントのように、説明を求めに最上階の社長室に押し込んできたジョンを前にして、美しいCEO(ミラ・ソルヴィーノ)が余裕綽綽と自社のプランについて解説する。
生まれながらの悪党(モンスター)を死刑に処するだけではモッタイナイ。手術して真っ当な人間に蘇らせるのであれば、当人にとっても回りの社会にとっても一挙両得ではないか、と。ジョンはこれに反論できない。見ていて私も「そのとおりやん!」と膝を打った。
結局、監督自身もまた、彼女に主張に反論できないまま、この映画は終わる。よって何とも中途半端なラストになっているのだ。
無論そんなことは現実には許されないだろう。そもそも手術で真っ当な人間になる、のみならず天才になるなどあり得ない。彼らは彼らのままだろう。
モンスターにすら自我があって、なんぴともこれを奪うことはできないというのは権利問題である。他方で、モンスターを野放しにすれば良俗秩序が脅かされるのは事実問題である。社会は彼らの自我を尊重しつつも、これを処刑せざるを得ない。それが法というものだ。法の矛盾とも言えるものが本作の隠れたモチーフになっている。
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また自分が歳を取ってくると、記憶の問題について考えざるを得ない。若い頃のような峻烈な記憶像はもう持てないような気がする。なるほど心を強く動かされるような出来事はいまだにあって、その記憶が衰えることはない。が、若い頃はどうでもいいようなことも良く覚えていた。それこそ他人の名前から住所や電話番号に至るまで。他人の顔もよく覚えられた……ような気がする。
私たちの脳裡にはひっきりなしに過去の記憶がよみがえって来る。それは強く印象に残る出来事の場合もあれば、なんでこんなことを突然思い出すのか、自分でも不思議に思うような日常の細部であったりもする。とまれ、それら過去の無数のイメージの不断の想起が、私たちの自意識を形成しているのは事実だろう。
ところが過去のイメージとは多くの場合、捏造された記憶である。過去の記憶がありのまま甦ってくることなど有りそうにない。私たちは無意識のうちに今ある想像力を駆使し、終始一貫した記憶像を形成しようとする。歳を取れば取るほど、そうした捏造記憶が増えてくる。にもかかわらず、私たちはそんな汚染された記憶を自我の礎とせざるを得ない。
証人喚問のような舞台に呼び出される政治家が「記憶にない」とくり返すのを世間は嘲弄する。とはいえ我が身を振り返ると、そう何でも覚えているわけではない。昨日食べた物すら忘れている。毎日ご馳走を口にしているなら別だが、インスタントのカレーだったかラーメンだったか等という、どうでもいい区別は印象に残りにくい。歳を取れば取るほど、情動に裏づけられない記憶は失われてゆく。それを取り戻そうとすれば記憶像を「捏造」せざるを得なくなる。
にもかかわらず私たちは、過去のイメージを呼び覚まし、つねに自分語りをくり返すことで自我を保ってゆく。
現代において記憶媒体は多岐に亘っている。OneDrive から過去の一日の写真が定期的に届くのを見て、10年前の自分はこんなことをしていたのか!と驚いたりする。そのとき思い出される過去は半ば事実であり、半ば捏造に違いない。
曖昧な記憶にすがる曖昧な私。それこそが人生の努力であり、自己とはそんな意志において保たれる儚い夢のごときものにすぎない。
これは個人レベルの話だが、国家や民族レベルにおいても同様のことが言えそうだ。初期人類がこれほど鮮明な過去の映像を保つことはあり得なかった。せいぜい文字を記念碑に刻む程度だった。
記憶媒体が文字から写真、ひいては映像に進化するにつれ、人類の自己意識も急激に鮮烈なものに転化した。記憶の捏造は度を越したものになって行く。それは避けがたい趨勢でもある。
私たちは過去を思い出す努力をやめることはできない。そして多くの人にとって幼少期の記憶は思い出せない。同様に人類もまた、自らの過去を十全に思い起こすことはない。むしろその圧倒的な無力を自覚せんとする営為こそが自らの《今》を正し、真っ当に生きることに繋がるだろう。