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森の中で鳥になる


「本来の面目坊が立ち姿 一目見しより恋とこそなれ」

一休道歌



 北九州市南部の山間に位置する「山田緑地」には、手付かずの広大な森が残っている。谷間を吹き抜ける風に導かれるように森の奥へ入っていくと、途中で少し開けた平地に出る。

    ここに湧き水が流れる細い水路がある。川底を覗くとカエルの卵がふわふわ沈んでいるのが見えた。数千個、或いはそれ以上あるかもしれない。いち早く気温の変化を察知した親ガエルたちがつい先日、一斉に産んだものと思われる。卵の中にある黒いつぶに動きはなく、じっとしたままだ。

 日が当たる流れの緩い場所を選んで産んでいる。川底には落ち葉が積もり、クッション代わりになっている。川底の砂を被せたカモフラージュも抜かりない。ちょっと離れるだけで、卵と川砂の見分けがつかなくなる。少しでも安全で快適な環境を作ろうとする親ガエルの優しい配慮が見て取れる。

    数日後にはしっぽが生え始め、手足の付いたオタマジャクシになる頃には、森はすっかり春になっていることだろう。





 「山田緑地」は、戦時中に帝国陸軍の弾薬庫が設置されていた森。今でも敷地内の数か所に、コンクリートで塞がれた弾薬庫跡や、豊かな水を湛えた貯水池が残っている。戦後米軍が弾薬庫として使用し、1972年に返還された。今は北九州市が所有、管理している。

 約半世紀にわたり一般の土地利用が制限されていたため、原生林が手付かずのままだ。現在立ち入り可能な区域は約80ヘクタール。園内の奥にさらにゲートがあり、入門手続きをして奥の森に入る。その他に立ち入り禁止の「保護区域」が70ヘクタールある。ここは人間による管理を一切行わず、自然のままの移り変わりを見守る区域となっている。

 小動物の姿は見たことがないが、野鳥の鳴き声は森じゅうにいつも響き渡っている。この日も数種類の野鳥の姿を間近に見ることができた。

 休日にもかかわらず、来園者はカメラや双眼鏡を持った、ごく少数のバードウォッチャーのみ。街から隔絶され、清涼な空気と静寂を堪能できるこの森は、鳥だけでなく、人間にとっても保護区サンクチュアリである。



 森の奥へ向かう途中で、小学生の男の子と若いお父さんの二人連れに出会った。二人とも明るく爽やかな挨拶をしていた。

 毎年多くの動植物が絶滅し続けている中で、こうした自然豊かな森を歩くことは、子供にとっても貴重な体験として記憶に残るに違いない。

 ここには熱狂も興奮もなければ、お金を無駄に使う場所もない。車の音、街の騒音、人工音が一切聴こえない。遊園地やスポーツ、ゲームも面白いとは思うが、森のバイブレーションを全身に浴びれば、子供のメンタルは自ずと安定し、調和へ導かれてゆくだろう。

 過去も未来もなく、ただ目の前にある自然と対峙するひととき。それは、母なる大地の懐に身を委ねる原初的な安心感を思い起こさせてくれる。自分の子供時代を振り返ってみても、楽しかった記憶の多くは自然の中でがむしゃらに遊んだ時のこと。山、森、川、そして海。思い出は光輝く宝の山、心の故郷だ。





 これまでの記事で度々取り上げているインドの探求施設には、子どもたちも来ていた。主に西洋人の親が一緒に連れてきた子である。彼らだけで集まって、ゲームをしたり瞑想をしたりしていた。彼らは遊ぶ時には元気旺盛で、活発に動き回った。しかし闇雲に大騒ぎするのではなく、落ち着いていて、どこか大人びている子が多かった。14歳以下の頃までに瞑想を学ぶと、中脳(第三の目)が活性化し、洞察力が高まる可能性があるらしい。

 このインドの施設は、我が瞑想の師オショウ氏(1931-1990)のガイダンスに基づく探求の場。宗教ではなく、信仰とか教条なども一切ない。弟子になると、師との1対1の関係になる。世界中にどれだけの弟子がいるのか誰も知らない。このガイダンスは弟子たちに向かって英語とヒンディー語で語られたものであり、すべて録音から文字起こしされ、600冊以上書籍として出版されている。日本語に翻訳されたものも数十冊ある。

OSHO Multimedia Gallery
Poona,India
https://www.osho.com/osho-meditation-resort/osho-multimedia-gallery

 この講話の内容は、世界中に存在する宗教的な経典などを題材にし、質問に答える形で語られたものが多い。晩年は日本で花開いた「禅」をテーマとした講話が中心となった。それらは「教え」というよりも、日常の中でいかに油断なく醒めて生きるかということについての「ヒント」が語られている。

 探求とは自分自身の独自の道を歩むこと。知識を集めることだけでは探求にならない。学んだことは、日常生活の営みの中で磨かれ、理解へと昇華していく。





 講話の中には子供に関するものもある。それらは『ニューチャイルド』というタイトルの本にまとめられ、日本でも翻訳本が出版された。

 この本には、オショウ氏の子ども時代の逸話が残されていた。彼の祖父の言葉に印象深いものがあった。それはまるで私たち一人一人に向けて語られたものにも聴こえてくる。


子供に敬意を払うことによってどんなことが可能になるか、あなたは理解しているだろうか?
そのとき、愛情と敬意を通して
あなたは子供が間違った方向に行くのを防ぐことができる
それは、恐れからではなく
あなたの愛情と敬意を通して可能になる

私の祖父のことだが・・・・・・

私には祖父に嘘をつくことができなかった
なぜなら彼は私をとても尊敬してくれていたからだ
家族全員が私に敵対しているときでさえ
少なくとも祖父だけは頼りにすることができた
祖父は、私に不利な申し立てなどいっさい意に介そうとせずこう言ってくれたものだった

「この子が何をしたかなど、どうでもいい
本当にそうしたのだとしたら、それは正しいに違いない
私はこの子を知っているが
この子が間違っていることなどあり得ない」

そして、祖父が私に味方したとなれば
他の家族は全員引き下がらざるを得なかった
私は祖父に何もかも話した
それに答えて祖父はこう言ったものだ

「何も心配することはない
何であれ自分が正しいと感じたことをしなさい
他の誰に決められるというんだね?
お前の置かれた状況があり、お前自身の立場があるのだから
お前にしか決めようがない
何であれ自分が正しいと感じたことをしなさい
それに、お前の味方ができるように
いつでも私がここにいることを覚えておくんだよ
私はお前を愛しているばかりか、尊敬しているんだからね」

祖父の私に対する尊敬は、私が受けた最大の恩恵だった
祖父が死にかけているとき
私は80マイルほど離れたところにいた
祖父は私に、もういくらも時間がないから急いで来るように知らせてきた
私は急いで飛んでいった
2時間のうちに私は祖父のところについていた

祖父はひたすら私を待っていたかのようだった
彼は目を見開いてこう言った

「お前が私のところに着くまではと思って
なんとか息を続けようとしていた
ひとつだけ、お前に言いたいことがある
私は、もうここにいてお前を助けてやることはできないが
お前には助けが必要になることもあるだろう
だが、覚えておきなさい
私がどこに行こうと、私の愛と尊敬はお前と共にある
誰も恐れることはないし、世間を恐れてはいけない」

これが祖父の最後の言葉だった
「世間を恐れてはいけない」

子供たちに敬意を払いなさい
彼らがものごとを恐れないようにさせなさい

だが、あなた自身が恐れでいっぱいだったら
どうして子供たちが
恐れを知らないようにしてやれるだろうか?

自分が子供たちの父親であり
お父さん、あるいは
お母さんであるというだけの理由で
あなたに対する尊敬を子供たちに強要してはいけない

そんな姿勢を変えて、敬意を払うことによって
子供たちがどんなふうに変わっていくか見ていてごらん

子供たちに敬意を払えば
彼らはあなたの言うことに
もっと注意深く耳を傾けるようになる
子供たちに敬意を払えば、彼らはもっと気をつけて
あなたと、あなたの気持ちを理解するようになる
そうならざるを得ない

そして、あなたは
決して子供たちに無理強いすることがなくなる
こうして、子供たちが理解することを通して
あなたが正しいと感じ
あなたに従うのであれば、彼らが本来の顔を失うことはない

本来の顔は特定の道を歩むことによって
失われるのではない
それは、子供たちが強制されることによって
自分の意に反して無理強いされることによって失われる
子供たちを愛し、敬意を払うことによって
彼らがこの世界をもっとよく理解していくための
大きな力になってやることができる
彼らがもっと油断なく、醒めていて
注意深くなるための手助けをすることができる

生とは実に貴重なものであり、それは存在からの贈り物だ
私たちは生を無駄に費やすべきではない

私たちは死んでゆく、その瞬間
自分は、より良い世界、より美しく、より優美な世界を
あとに残していくのだ、と言えるようになるべきだ

だが、それは私たちが
自分の本来の顔
この世界に生まれてきた時と同じ顔のまま
この世界を去っていく場合にしか実現できない

オショウ講和集『ニューチャイルド』
1985年3月5日






 森は自由奔放に踊り狂っているような樹々の集合体であり、混沌とした命のダイナミズムを象徴しているかのように見える。

 樹々の間を歩いていると、視線は木から木へ、枝から枝へと移っていく。それはまるで鳥たちが食べものを求めて、森じゅうを飛び回ることに似ている。人は空を飛べないが、森の中を動き回り、辺りを注意深く観察することはできる。

 鳥たちは厳しい環境に耐えながら、過去も未来もなく、今この瞬間小さな体一つで生きている。その日その時を全力で生きている。小枝にしばらく止まり、愛の歌を高らかに歌い上げる。中には暖かくなってから、海を越えて大陸へと渡る命がけの旅に出ようとしている小鳥たちもいる。その生存の在り方は、あまりにも純粋で、力強く、美しい。

「人間も本当は同じなんだよ」

 鳥たちの澄み切った無垢な歌声を聴いていると、そう言われているような気がした。

 いつの間にか名前も立場も肩書も経歴もすべて幻のようなものに見えてくる。未来の夢も、過去の記憶も意味を失う。そこでは誰でもない素の「顔」が現れる。純粋な「内なる子供」が立ち現れる。

「本来の面目坊が立ち姿 一目見しより恋とこそなれ」

 一休禅師が詠んだ「本来の面目坊」の歌とは、そういうことなのかもしれないと思う。



もう一度、子供になりなさい
それであなたは創造的になれる
子供はみんな創造的だ
創造性には自由が必要だ
     マインドからの自由
     知識からの自由
     偏見からの自由が‥‥‥

創造的な人とは
新しいことを試みることのできる人だ
創造的な人間はロボットではない
ロボットは決して創造的にはならない
彼らは繰り返すだけだ
だから、もう一度、子供になりなさい

そうすれば
あらゆる子供が、創造的であることに驚くだろう

オショウ講和集『ニューチャイルド』
1977年8月18日



Osho Dhyan Upvan, India
https://www.oshonews.com/2024/06/11/childrens-meditation-and-celebration-retreats-in-haryana/


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北九州市小倉北区 山田緑地










































Francis Poulenc
Mélancolie, FP 105
Corinna Simon
 




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燿
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