アート鑑賞ってなんだろう?
(ずいぶんと久しぶりの投稿となりました。)
今回は、先ほど妻と交わした「アート鑑賞ってなんだろう」という話題が面白かったので、紹介しようと思います。
なお私たち夫妻は、芸術に特別造詣が深いわけではありません。それぞれの興味関心に基づいただけの(芸術分野は素人の)談義だと思って読んでください。
また本稿では、絵画・文学・楽曲からアニメまで、幅広い意味で「アート」として話を進めています。あしからず。
さて本題に入ります。
話題のきっかけは、あるYouTube動画でした。その動画では、先日「水曜日のダウンタウン」で取り上げられた、歌手清春さんの新曲『霧』の歌詞について、現代文の講師が5分で解釈を考え解説するというものでした。
時間制限といったYouTube企画ゆえの物足りなさはあったものの、面白い解釈で、笑いつつも感心させられました。
ただしそこでなされた解釈は、動画内のテロップにもあるように、どうやら清春さんの描くものとは幾分異なっていたようです。また動画のコメント欄にも、「正しいかどうかは本人に聞かないと分からない」というものがありました。
ここで思い出されたのが、過去に大学入試で出題された小林多喜二『蟹工船』にまつわるエピソードです。
それは文中で1箇所だけ「蟹」の表記がカタカナの「カニ」になっているが、それは何故か、という出題でした。もちろん入試問題ですから、大学は解答を用意していたはずですし、各予備校などもしのぎを削って解答例を作成したそうです。しかし後日、作者が「ただのミスだ」と発言したそうな。
(実は先の動画の講師の授業を受けたことがあり、確かその際に聞いたエピソードです。仔細記憶違いをしていたらすみません。)
受験生からしたら、「ふざけるな!」という話ですよね。
入試問題に小説を取り入れるべきか否かについては、これまでも議論がなされてきたそうですが、その理由がわかるような気もします。笑
ですが、先日読んだアートに関する書籍でも、なんと似たような話が紹介されていたのです。
美学者の方が言うには、アートの“鑑賞“は自由だけれども、“解釈“は論理的なものでなければいけない。ただしそれは、作者のそれと必ず一致するものではないんだよ、と。
(哲学でいうところの、音声中心主義にも通ずる論点かもしれませんね。)
以上より私は、冒頭で紹介した歌詞(アート)に対する現代文講師の「解釈」の当否を、本人の意図に求めるのは必ずしも正しいものではなく、説得力が重要だよね、と妻に話したのです。
すると妻からは、思いもよらぬ返答が。
「作者は何も、頭の中を完全に言語化して作品を作っているわけではないのでは?」というのです。
もし画家に「なぜこの色、形にしたのか?」と聞いても、「なんとなく」と帰ってくることは珍しくないのではないか。例えば無数の考察がなされるエヴァンゲリオンの監督庵野さんだって、いかにも口下手じゃないか。きっと直感で描いている部分も多いはずだ、と。
つまり、それらアートを解釈するという行為は、その作者の無意識のようなものを言語化しようとすることなのかもしれない、と。
さすが私とは違い、芸術や心理学にも理解のある妻ならではの指摘だとおもいました。聞けば、心理学には箱庭療法(※)といったものもあるそうです。なるほど、確かに私も大学の授業でマインドマップなるものを描いた記憶があります。
※箱庭療法とは、「セラピストが見守る中、クライエントが自発的に、砂の入った箱の中にミニチュア玩具を置き、また砂自体を使って、自由に何かを表現したり、遊ぶことを通して行う心理療法」です。(以下サイトより引用)
興味関心のある分野が異なれば、「アートの解釈ってなんだ?」という疑問についても、これほどまでに見方が異なるのだな、と面白い気づきを得られました。
皆さんは「アートの解釈」について、どのように考えられますか?