絵が描けなくなったトラウマや自分の半生について詳しく解説
どうも、nullです。
記事書く前にちょっと愚痴らせてください。
大丈夫、ほんの少しだけなんで。
旧Twitterには努力すれば絵が描けるようになるって言ってる奴が多すぎる!(米倉○子ボイスで)
はい、というわけで、改めて自分の絵に対する考え方や半生、トラウマについて解説していきます。
事件発生前
〜保育園まで
自分はお世辞にも「出来る子」ではありませんでした。
それは頭が悪いというのもありますが、みんなに合わせられないという面が強く出たのが原因だと思います。
例えば、保育士の人が「今日はみんなでお歌を歌いましょう」と言うと決まって他の事をしています。
また、この頃から既に内気な性格だった為、友達を作る、という点では全くダメで、仮にある程度仲良くなっても、相手を傷つける事を言ってすぐに仲違い…というのを繰り返していました。
この頃には既に絵は描き始めていますが、誰かに見せるというような事はしなかった為、親は「保育園の頃から描いていたなんて知らなかった」と言っていました。
基本絵は一人で黙々と描いていたので、誰かに邪魔されたり、馬鹿にされたといった事はありませんでした。
小学生時代
結論からいうと、落第生でした。なぜかというと、
国語では漢字を殆ど書けない(高校受験時に猛勉強した)
算数をまともにできない(高校受験時に略)
体育はオール1
食べ物の好き嫌いが激しすぎる
服の感触が嫌いだと服を着ない
人の気持ちが分からない為、本音をズバズバ言う→それで他人を傷つける
はい、挙げればキリがないですね。
流石に親がこれはおかしいと勘付き、病院に連れて行った結果、「ASD(自閉症スペクトラム)」と診断されました。
そして、自分の現状を見て、中学校は養護学校への入学してはどうかと言われました。
自分は面白そう、という理由で行きたいと言いました。
それが地獄の始まりだと知らずに。
あ、言い忘れましたが、この頃版画にハマっていて、特に風景画とかよく描いてました。
中学校時代
自分が入学した養護学校は山の上にあり、バスと電車で片道1時間半かけて登校していました。
中学部1年のクラスには生徒が自分を含めて3人。
そして先生が2人。この内、K先生という人が自分を地獄に突き落とした犯人です。
K先生は普段は明るく、他の先生や保護者の前では真面目な先生でした。
しかし、数学(K先生の担当教科)等の時間になると態度が豹変し、
K「なんでこんな計算できないわけ?バカなの?」
K「はーい残念、間違ってまーすwww」
等、ひどい事を言うのです。
更に反抗しようものなら、
俺「先生、それはおかしいと思いまs」
K「口答えしてんじゃねーよボケ!」
といって暴言、暴力は当たり前な先生でした。
何より、先生は普段は真面目を装っている為、他の先生や親に話しても全く信用してもらえませんでした。
事件発生
俺はあの日を忘れもしない。
あれは2013年6月、夏も本気モードに入りだした頃だった。
当時、学校では学校祭で使うオリジナルキャラクターをみんなで決める為、用紙が配られていた。
この時、教室にいたのはもう一人の担任と俺以外の生徒2人は不在、つまり俺とK先生の2人だけ。
当時、自分が主に描いていたのは風景画で、人物画、ましてオリジナルキャラクターなんて考えた事がなかったので、長考に入っていた。
しかし、この日のK先生は機嫌が悪く、何度か急かすとカウントダウンを始めました。
パニックになった自分は、急いで「○」を描きました。そして、それをK先生に見せました。
K「…何だこれは」
俺「お、オリジナルキャラクt」
K「は?適当言ってんじゃねーよ!」
といって、その紙を捨てて新しい紙を自分の机にバン!と置くと、
K「早く描け。終わったら帰ってよし」
と言いました。もうこの時点で怒りMAXですね。
自分は泣きながら描けません、許してと言いましたが、K先生はいいから早く描けと言って、自分の手首をリンゴを握り潰すかのごとくギューっと握りました。
俺「先生やめて!痛い!いたい!いたいいだいい゛だい゛!」
何度も振り解こうとしますが、先生はますます力を強めるばかり。力ずくで手を解こうとして、ついに紙を破いてしまいます。しかし、それがK先生の逆鱗に触れることになるのでした。
K「お前%:¥$€%#°○・*+×÷<=>々%・〒々〆^|\ってんだゴラァ!」
解読不能な言葉を発すると、その力のまま教室から一番遠い生徒指導まで引っ張られました。
そこで何を怒られたかは、ショックが大きすぎてよく覚えていません。
事件発生後
呪いの始まり
流石に事の一部始終が周りに漏れたのか、K先生は遠い土地に左遷になりました。
しかし、自分はタダでは済まず、絵を描こうとすると、頭痛や吐き気、目眩、手の震え、過呼吸、等の症状が出るようになりました。
絵を描こうという気持ちと、媒体との近さで症状の量や強さが変わり、描くのを止めると少しずつ症状が引いていきます。
PTSDともまた違う症状にかかりつけ医も匙を投げ、周りの人も信じてくれない、単に治らないだけでなく、救いの手も差し伸べられないこの病気を、自分は『呪い』と呼びました。
何故絵を描こうとしたのか?
ここから先を話すにあたってどうしても話さなければいけないエピソードを忘れていました。
「何故絵を描こうと志したのか?」
「何故絵にこだわるのか?」
自分は生まれが1999年で、親がテレビっ子。
そう、この頃「ゲーム脳」という忌まわしき言葉が流行っていたのです。当然、親は洗脳され、ゲームに対して嫌悪感を抱きます。
ひょんな事から手に入れたゲーム機「DSLite」。
これを巡って親と自分とで何度も奪い奪われを繰り返し、互いに口論を繰り返す、という事がありました。
小学生に入って、自分は考えました。
「親にゲームの良さを理解してもらうにはどうすればいいか?」
自分にとっての解は、「ゲームを自分で作って広める」でした。
しかし、先述した通り勉強面では絶望的だった為、アーティストとして活動しようと考えました。
しかし絵が描けなくなった為、プログラマーに転向することになるのです。
K先生からは、うちから普通の高校に第一志望で通った生徒はいないと言われましたが、見事に地元の工業高校の情報技術科に入学する事になりました。
高校時代
工業高校での授業は一般的な5教科に加え、専門教科を勉強するのですが、はっきりいって専門教科は全く才能がありませんでした。
C言語のみならず、C++、Java、JavaScript、Python、HTML、大体の言語は勉強しましたが、全然分かりませんでした。
そんな中で唯一C#だけはなんとか覚えました。
…が、当時遊んでたソーシャルゲームがいくつもクローズ(サービス終了)していた事から、ソシャゲに対して嫌悪感を感じており、C#の主戦場であるソシャゲ業界に行きたくないという理由でプログラマーを諦めざるを得ませんでした。
劣等感から、勉強、バイト、ダイエット、色々なことに手を出した結果パンクしてしまい、うつ病になってしまいます。
努力って何?
自分は努力してない訳ではないんです。
むしろよく頑張った方だと思います。
画材を変えたり、場所を変えたり、時間帯を変えたり…
手を替え品を替え、やれる事はやり尽くしました。
それを今の今まで10年間、毎日続けました。
少なくとも平日は30分、休日は1時間やりました。
【追記】先日練習時間が少ないのではという声があったため、それを説明する補足記事を作りました。当時は家庭が半ば崩壊状態だったので時間をこれしか確保できなかったんです。詳しくは下のリンクをご覧ください。
しかし、種のない腐った土に水をかけた所で何も変わりませんでした。
よく、AIを毛嫌いする人は
「努力すれば絵は描けるようになる」
「字が書けるなら絵も描ける」
と言いますが、はっきり言ってあれは嘘です。
0に何を掛けても0です。なんなら、nullには足し算も効きません。
また、本を読めばいいだろ、と言ってきた人もいましたが、世の中の本や講座はある程度描ける人を対象にしています。
筆を握るだけで背脂ぎっしりなくらい緊張する人向けの本なんてないんですよ。残念ながら。
無論、自分は自らの力で描きたいと願う人なので、今後AIを積極的に利用する事はないでしょう。
しかし、簡単に手書きは誰でも出来るなんて言わないでください。
環境、才能、運…それらに恵まれた事を自覚してください。
人から絵を盗むなと説教する時間で、努力する為の方法を教えてください。
そして、絵を描ける事は特別な行為なんだ、という事を常に意識してください。
余談
ここまで読んでくれてありがとうございます。
でも、大した話ではないです。読んでも貴方に得はありません。
K先生はあの後、新天地の学校の教頭になっていた、という話を中学校の友達から聞いた、というだけの話ですから。
公務員は年功序列なのである程度覚悟はしてましたが、いざなってしまうと衝撃が大きいですね。
俺を追い詰めたアイツはもういない。
俺の手首を掴むアイツはここにはいない。
じゃあ、なんで今だ絵を描けないでいるんだ?
今はまだ、その答えは出そうにない。