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DETOURS STORY #7 Sakiさん【前編】

17歳で体調不良が始まり、SLEと診断されるまで8年を要したプロゴルファーのSakiさん。子供の頃から当たり前のようにゴルフをしてきて、プロとして活躍している最中に”ゴルフができない体”という現実を突きつけられたSakiさんはこれまでも、様々なチャネルで発信されています。
改めて、これまでの過去や、今の生活や今後の想いに至るまでを綴ったDETOURS STORYを【前編】・【後編】に分けて、ご紹介させていただきます。


自己紹介

皆さん初めまして!
プロゴルファーの岡村咲と申します。
この度、Detours Storyとして、私のこれまでの人生を振り返りながら、全身性エリテマトーデスについて綴らせて頂きます。

まずは私のプロフィールからサクッとご紹介させて頂きます。
****プロフィール****
岡村 咲(結婚して現在は小野になりました)
1992年8月7日生まれ / 現在32歳
徳島県出身
168cm / O型
両親、兄 4人家族で育ち
2016年に結婚、現在は夫と2人家族
2022年10月よりオランダ在住

【戦歴】
・ジュニアゴルフ全国大会5勝
・ジュニアゴルフ世界大会チーム戦2度日本代表、1度のワールドチャンピオン
・ジュニアゴルフ世界大会個人4度の日本代表
・19歳でプロゴルファー転向2011年
・JLPGAステップアップツアー 2012年
・JLPGAツアーフル参戦2013年〜2015年
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ジュニアゴルファーからプロへ

私は、子供の頃から活発で、大人の中で揉まれながら?!いや、甘やかされながら育った、負けん気の強い女の子でした。小さい頃から、ピアノ、英会話、テニス、水泳、硬筆、そろばん、とたくさんの習い事をさせて貰っていて、ゴルフが好きな父の影響で、ゴルフも習い事のひとつとして始めました。

テニスや水泳は得意でしたが、走るのが苦手、学校で習うバスケやサッカーも苦手でした。そんな運動に苦手意識を持っていた私が、プロゴルファーになるなんて、家族はもちろん、私でさえ夢にも思っていませんでした。

私がゴルフを始めたのは10歳の頃。当時は宮里藍さんが大活躍されていた事もあり、「藍ちゃんになりたい」とプロゴルファーになる夢を抱くようになります。

家族は、まさか本当にプロになるとは思っていなかったと思いますが、夢を追う娘を全力で応援してくれました。ジュニアゴルフで頭角を表すようになると、試合数も増えていき、遠征費用を抑える為、そして親子の思い出づくりの為に大きい車を購入してくれて、車中泊をしたり、最終的には中学生の頃にキャンピングカーを購入し、試合をサポートしてくれるようになりました。

この頃は、私の”健康”の黄金時代とでも言いましょうか。風邪もひかない、元気ハツラツなジュニアゴルファーそのものでした。しかし、持ち前の明るさとは裏腹に、あかんたれな性格が災いし、試合でいい成績を残す事が出来ず、大きな体の赤ちゃんのように、悔し涙を流す日々。しかし、中学3年生の時、初めて全国大会で優勝!フランスで行われた世界大会へ日本代表として参加し、日本チームとして世界一に輝く事ができました!

この後親元を離れ、高知県の高校へ進学。寮生活がスタートしました。そして、高校時代は、私の”ゴルフ”の黄金時代です。全国大会で何度も優勝し、日本代表として海外でもプレーするようになります。

しかし、この頃から、少しずつ体調を崩し始めました。具体的には、よく風邪を引く、なんとなく体がだるい、と、その程度ではありましたが、
徐々に、咳が止まらない、階段を上がるのが辛い、体が痛い、動きたくないような動けないような気怠さを感じるようになり、最終的には血便、嘔吐、吐血、脱毛、体重低下、と凄まじい体調不良に襲われていきました。

高校3年生になると学校も休みがち、ゴルフもできない、実家に帰って病院に行ったり、寮で休んだり、高知県でも看護科に通う友人に付き添って貰い病院に足を運んだこともありましたが、異常なし。と言うか、原因不明。

プロゴルファーになる夢がもう目の前にあるにも関わらず、自分の生死について考える程、身体的も精神的にも追い込まれていきました。


プロテストが間近に迫った頃、一年の前半に当たる半分ほどしか試合に出る事ができず、練習もままならない日々を送っていました。プロテスト受験についてもどうするべきなのかとても悩んでいました。すでにエントリーを終え、エントリフィーも納めた後。こんな不完全な状態で出場する事に、申し訳ない気持ちが込み上げていた私に、父から、最後の思い出作りに、チャレンジしておいで、と言って貰い、自分の中でも最後のチャレンジだと思って挑戦する事にしました。

体調不良が続く中、プロテスト1ヶ月前から、両親サポートの元、一生懸命練習しました。プロテストを受けるには余りに短過ぎる準備期間ではありましたが、1st.ステージ、2nd.ステージをクリアし、ファイナルステージまで進出。残念ながら後一歩のところでプロテスト合格には至りませんでしたが、自分の中で「やっぱりプロゴルファーになりたい」と言う気持ちが強くなっていました。

プロテストの後に行われる、試合に出るためのQT(プロテスト合格者も不合格になった人も、現役のプロゴルファーも参加する予選会)、が翌月に控えていた事もあり、もう一ヶ月間、死に物狂いで頑張って、なんとしてもプロゴルファーになろうと、自分が置かれた状況に負けてたまるか!と言う気持ちで挑戦しました!

結果、1st.、2nd.と通過し、3rd.ステージへ。残念ながら3rd.で終了してしまいましたが、2nd.をクリアした時点でプロに転向する事ができ、プロの下部ツアーであるステップアップツアーにフル参戦資格を得たと共に、
プロゴルファーの第一歩を踏み出しました。

あの時は、無我夢中で、痛いのも痒いのも分からないような状態でゴルフをしていました。そのお陰で今があるので、当時の自分をとても誇りに思います。

プロに転向した翌年からステップアップツアーに参戦していましたが、
「プロゴルファー岡村咲」と、スタートコールされる度に震えるほど嬉しかったのを鮮明に覚えています。

徐々に私の応援に来て下さるファンの方も出来、試合後にサインを求められる事も増えていきました。
一度は諦めかけた夢でしたが、当時の私には、もはやプロになっただけではダメだと。来年のレギュラーツアー(日本のトップツアー)に出場する権利を取って、トッププロになるぞ!と言う気持ちでいっぱいでした。

悪化する体調不良、狂い始める人生の歯車

この翌年(プロ2年目)ようやくレギュラーツアーに出ると言うスタートラインに立ち、1年で33試合をこなす中で、体が付いていかない、という問題が起こりました。ツアーの中で1番若くて元気なはずの新人が、技術の壁ではなく、体力の壁のようなものを感じていました。自分がやるべき練習や試合を満足いく体で臨む事ができなかったり、良い体をキープする事が出来ませんでした。
風邪を引くような体調不良ではなく、ツアーの場合、月曜日移動、火曜日水曜日練習ラウンド、木曜日プロアマ大会、金曜日土曜日日曜日試合というハードなスケジュールではありますが、
疲れから回復しない、日に日に体が動き辛い、体に力が入らない、そんな違和感を感じていました。
しかも年間のスケジュールは、3月ツアーが開幕し、11月に閉幕するまで、オープンウィークと言われる試合が行われない週は1か2週間だけでした。それはそれは、タフであるのは確かなのですが、21歳という若さにも関わらず、日に日に体が動かなくなる、と言う違和感を感じていました。


そんな中、専属トレーナーをお迎えする事になりました。コーチである父と一緒にルーキーイヤーを振り返り、体が動けなくなっていく理由を体力不足だと考えたからです。もちろん、私も同じ意見でした。
試合が無い12月、1月2月の3ヶ月間、専属トレーナーと体力作り、トレーニング、練習、イベント、テレビ出演等をこなしながら次のシーズンに備えます。

しかし、新シーズンを迎えても状況は悪化していく一方でした。明らかに、浮腫が顔から指先、足先にまで感じるようになり、体に力が入らない、倦怠感を感じる、寝ても翌朝疲れが残っていてぐったりしている、そんな感じでした。
それでも試合はやってくるし、たくさんの方に応援して頂いている。
体とは裏腹に、アドレナリンはふつふつと湧き上がってくるので、それを頼りに体を動かす日々。レギュラーツアーの2シーズン目を終えた時、ようやく、流石にこれはおかしい。と思いシーズンオフに病院に行く事になりました。


病院に行ったところ、不調の原因は不明のままでしたが、
数年間悩まされていた激しい咳は喘息で、あなたはアレルギー体質ですよと言われました。

しかし、分かった事はこれだけでした。
普通に病院に行っても簡単に分からないと言われ突き放されるばかりだったので、ゴルフのスポンサー関係の方々に相談しました。するとすぐに、あるクリニックで食物アレルギー等の検査を受けることになりました。それはアメリカに血液を送り検査する遅延型と言われる食物アレルギーの検査でした。何も分からないまま検査を受け、結果が届いたところ、日頃から当たり前に食べている食べ物がほとんどアレルギーという衝撃の結果でした。小麦、卵、乳、醸造イースト、製パン用イースト、コーヒー、牡蠣、ごま、キウイ、スイカ、などです。したがって上記全てと、発酵しているもの(醤油、酒、味醂、味噌、あらゆる発酵食品)までアレルギーだと言うのです。分かったからには、これで自分のアスリート人生を変える事ができるのなら、と完全除去食生活を行う決心をしました。


しかし、最初は知識不足や甘えもあり、完全除去とはいきませんでした。それでも、できる限りのアレルゲンを避ける生活を行いながら試合に参加し続けました。すると浮腫や倦怠感、動悸と言った症状が少しずつ和らいでいるように感じました。(真偽は不明)
そんな時、キャリアの中ではまだ2回程度しか経験した事がない、優勝争いに食い込みました。1日も早く初優勝を遂げる事を目標としていたので、アレルギーを克服しつつあるこのタイミングでの優勝争いはとても大きなチャンスでした。しかし、試合最終日、朝から全身にとてつもない浮腫、倦怠感、動悸。原因と考えられたのは、除去食に気を遣っていたにも関わらず、スープの中にごま油が使われていた事が発覚、恐らくそれが原因で症状が出てしまいました。
結果はスコアを伸ばせず私は優勝争いから転落。これまでで1番悔しくて悲しい結果でした。
この経験をきっかけに、私の人生の歯車が狂い始めました。


食物アレルギーに加えて光線(紫外線)アレルギーの診断を受ける

こうした悔しい思いをした事で、完全除去食により一層、注意して取り組むようになりました。キャンピングカーを時には自分で運転し(普段は父がサポートしてくれていました)試合をこなしながら車の中で料理をするようになりました。自分の食べる物を完璧な除去食にして、良い体調をキープする為でした。しかし、これによって私のメンタルは追い込まれていき、拒食症状が出始め、最終的に栄養失調になってしまいました。拒食だけではなく、余りにもアレルゲンが多い事から、必要な栄養を摂る事が出来なくなってしまいました。


そんな中でも試合は続きます。ある日、右手の薬指第二関節が痛み始めました。しばらく痛みが続いた事もあり、その時は北海道での試合に出場中で、宿泊していたホテルの窓からたまたま見えたリウマチクリニックに飛び込みで行く事にしました。
血液検査をして貰い、抗核抗体が陽性と発覚。
このまますぐに精密検査を勧められましたが、試合のシーズン真っ只中の為、1箇所に留まり続ける事が不可能なので、シーズンオフに必ず精密検査を、と医師から釘を刺されました。


身も心もボロボロになって、改めて、もう一度自分の体を知り、どうしたらこのアレルギーと言うハンデを乗り越えられるのか考えました。
医師や栄養士、シェフの方々にたくさんサポートして頂き、1年間かけて、体を作り直し、また、ある程度のアレルギーを克服する為、1年間のツアー離脱を決意。
そして北海道で発覚した抗核抗体の異常について、改めて病院で精密検査を受ける事にしました。


食物アレルギーの件でお世話になっていたシェフのお仲間に、開業医でありながら大学で研究もされている方がいらっしゃるとの事でご紹介頂き、その方に診て貰う為に静岡県へ向かいました。
検査の結果は膠原病の可能性が高いとの事。
いくつかの病気の可能性があり、その中には全身性エリテマトーデスも含まれていました。
東京在住だった事もあり、それを踏まえて、家から通える病院で経過観察(定期的な血液検査)を行う事に。
毎月、ゴルフの練習合宿を行いながら、トレーニング、アスリートフードマイスターの勉強、シェフから習ったアレルギー食など料理の練習、そして拒食症状で食べる事自体がままならなかったので、1日3回、少ない量でもいいから食べ物を口にする事を頑張りました。
そんな生活を送っていたある日の合宿初日、全身に発疹と発熱、倦怠感に襲われました。
数日間、宿泊先で安静にし、その後経過観察をしていたかかりつけの病院へ行きました。
そこで改めてたくさんの検査や診察を行い、光線アレルギー(紫外線アレルギー)だと言われました。プロゴルファーには余りにも酷な宣告でした。
一難去る前にもう一難。
ツアーに戻るどころか、ゴルフを続けられるのか自問自答する日々でした。

先が見えない不安と恐怖に心が蝕まれる日々

当たり前の様に子供の頃からゴルフをしてきた自分が、プロという職業について間も無く、ゴルフができない体ですよ、と言う現実を突きつけられ、
それがどういう意味なのか、自分の人生はこれからどうなっていくのか、
目の前が真っ暗になったのを覚えています。
それと同時に、痛みや苦しみからやっと解放される。

弱い自分を責め続けていた事もあり、あれは全部病気のせいだったんだ、と分かった事は救いでもありました。
ですが、自分が何者なのか分からなくなったり、これまで経験した事のない、何もしない時間に、だんだんと心を蝕まれていきました。
ゴルフもできない、家事もできない、病院に通いながらベッドで寝たきりのような毎日。
私が死んでも、誰も気づかない、誰も傷つかない、生きてても意味が無い、そんな考えすらもよぎりました。


そんな”どん底”から救い出してくれたのは、当時恋人だった夫でした。
こんな状態の私にも、いつも笑顔で接してくれて、どんな惨めな姿を見ても「ゴルフをしていたのも、今の咲も、咲だよ」「病気が良くなったら全てが良くなる、今はとにかくゆっくり休んで自分に優しくしてあげて」と言ってくれました。
夫は、「しんどいなら寝てたらいいし、寝ながらできる事とか、咲がしたい事をしよう」と、常に前向きな案を出してくれます。
子供の頃から、ゴルフを通して、スポンサー企業の事、周囲の事を考えて行動してきて、必要以上に自分を犠牲にしてしまうような所があった私でしたが、夫の言葉は、私自身ががどうしたいのかを第一に考えさせてくれました。
毎日涙を流す日々から少しずつ本来の明るい自分を取り戻すのには時間が掛かりましたが、それでもずっと私の隣で応援してサポートしてくれた夫には心から感謝しています。


様々な体調不良に悩まされ始めた17歳から、26歳になる3ヶ月前、
SLEと診断がついたのはツアー離脱から約3年後の事でした。


【後編】につづきます

後編では、診断後の状況、自分に合う薬に出会うまでの葛藤から転機について、さらに長年の夢を叶えていくまでのご経験をご紹介させていただきます。


今回インタビューにご協力いただいたSakiさんのYouTubeのリンクはこちら

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