見出し画像

心配性と生きる


それ、心配しすぎだよ。
もっと気楽に考えて。

わたしがそう言われて来た回数は、数知れない。

わたしがどれほど心配性なのか。
旅行に行く時、何か忘れてると不安だからと荷物は多くなり、結局、ほぼ使わない荷物だけをかつぎ、肩が痛くなった思い出。

学校の個人懇談に遅れるといけないからと早めに行きすぎて廊下で待っていたら「えっ!?この時間でしたっけ!?急いで用意しますね!」と先生に気を遣わせた過去。

幼稚園の遠足の日が土砂降り。あきらかに降っていたけど念のため、幼稚園に電話し「今日は遠足ないですよね!?」と確認してしまい、「絶対にないですね」と断言されたこと。

石橋をたたいて渡るのは前提のこと、石橋をたたく道具まで入念に確認する性分なのだ。

そんな心配性なわたし。
いろんなことを心配する毎日のなか、2人の男児を育てながら、日々の生活を回していた。
そんな中、ふと気になったことがあった。

当時、3歳の次男。
物を見るときに、とにかく自分の目に極端に近づけて見ていたことだった。
絵を描く時は机に突っ伏すほどに顔を近づけ、パジャマのボタンをする時はパジャマに吸い込まれるんじゃないかと思うほど近くからボタンを凝視している。

なんか、おかしい。
普通の見え方ではないのかもしれない。
幼稚園から何か指摘されたことはなく、誰からもおかしいとは言われたことがなかった。
ただ、3歳児健診で視力検査を嫌がって正確にできなかった事がひっかかっていた。
でもこの歳だとうまく検査できない事もある、心配であれば眼科へ、そう説明される状況だった。

それもコロナ禍。
テレビニュースでは連日の感染者や入院者数の報道、学校や幼稚園も限界態勢。
バスや電車に乗ってもマスクの人ばかり、病院に行く、というだけでも、さすがに今はちょっと、という思いがよぎる。

心配しすぎじゃない?
小さい子なんて、うまく視力検査できないし、そんなもんでしょ、大丈夫でしょ。

まわりからそんな声が聞こえる気がする。
それでもやっぱり心配で、私は受診を選んだ。杞憂で終わればいい。心配性だと笑われて終わるならいい。まずは行っておこうと思った。
そう思い始めたら気が急き、とにかく直近の日にちを選んで、息子が幼稚園から帰るなり車に乗せ、眼科へ連れて行った。

まずは検査を、と視力表や機械のある部屋に連れていかれて緊張する。
検査するお姉さんの指示に従っていた息子だが、急に視力表を指差す手が止まる。
視力検査の意味がわかってないんだよね?
緊張してて上手くできないんだよね?
思わずわたしが助言したり、手助けしようとすると、「お母さんは待合室で待っていてください」と言われた。
しばらくして呼ばれ、不安な気持ちいっぱいで、診察室に入った。
先生からは、一般的な視力よりうんと低く、弱視という状態であることが告げられた。
「お母さん、これ今、決断して来てくれてよかったですよ。弱視の治療は少しでも早い方がいいんです。今から眼鏡をかけることで視力を上げられるので、これから頑張ってかけていきましょう」

認めたくない事実だった。
なぜ今わたしは、こんな事実に直面してるんだろう、これから頑張っていけるだろうか、複雑な思いが一気に湧き上がった。
もっともっと早く受診していたらよかったんじゃないか。
こういう「〜していたら」という思いは、いつでも気持ちに波風を立てる。

「母親」という役割になってから、わたしの日々の心配は爆発的に増えた。

あの時、あの遊具に乗せなかったら。
あの時、もう少し感染対策していたら。
あの時、もう少し冷静な判断していたら。

今回はたまたま弱視が発見できたけれど、毎日毎日、心配と後悔のくりかえし。
未来のわたしから、「こうしていたらよかったんだよ」と、常に怒られている。

でも、あの発見から数年経つ今、息子は緑色のフレームのメガネを好んでかけ、少ーしずつだけど視力も向上している。
楽しそうにお絵描きをしているのを見ると、じんわり安心する。

あの時、受診することを選んでよかった。
息子の目を守れたのなら、心配性のわたしでよかった。
こんなふうに、一万回の心配が、一回の発見を生んでくれることがあるから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?