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『山中湖にて』(7) レジェンド探偵の調査ファイル,浮気調査(全11回)

『現役探偵の調査ファイル 七人の奇妙な依頼人』 福田政史:著
【第五話】山中湖にて

 調査を始めて、一週間が過ぎたころだろうか。途中経過を説明した私は、依頼人から夫と離婚した経緯を詳しく聞いたことがあった(むしろ聞かされたと言ったほうがいいのかもしれないが)。
「彼と一線を越えたのは、確か三度目の逢瀬のときでした。それからというもの、〝今日は昼からちょっと時間があるから会えない?〟と言う電話で、わたしはいそいそと彼を迎えに行くようになりました」
 マルヒから指定された時間に、車で学校の近くまで行き、彼を乗せるといつも利用するラブホテルに直行。そこで一、二時間過ごすと、再び、彼を車で学校の近くまで送り、家に帰る。典型的な主婦不倫のケースである。
 多いときは、週三回以上呼び出されることもあったのが、岡田教諭は生徒の母親とラブホテルに行くとき、授業を自習にして時間を作っていたようだ。
 夫と別れてくれと言われたのは、こんな逢瀬を重ねて数か月が過ぎたころだったという。
「いつものようにラブホテルで愛し合った後でした。彼が思い詰めた顔で私に言うんです。〝僕はますます君が好きになった。君がご主人と同じ寝室で寝ることを考えるとつらくなるんだ。ご主人と別れてくれないか。もちろん僕も離婚するよ。そして二人でやり直そう〟と、切々と頼むんです。私も、その時はすでに彼なしでは生きていけないほど思い詰めていましたから、彼の申し出はむしろ嬉しいと思ったほどでした」
 こうして離婚を夫に切り出したのだが、夫はむろん寝耳に水である。
「もちろん、理由を聞かれました。でも、私は彼に迷惑が掛かるといけないと思って、彼のことは伏せておきました」
 ご主人は、ただ「別れてくれ」と言うばかりの妻を持て余し、彼女の姉に相談したという。依頼者の姉も東京に住み、わりあい足繁く会っていたからだった。
 依頼人のお姉さんもご主人から聞いてびっくりしたようで、すぐに家に来た。
「どうして、あんないいご主人と別れようなんて言うの?私に理由を教えて」
 こう詰め寄られて、やっと離婚する理由を姉に打ち明けたのだが、お姉さんやこれを聞いた夫が仰天したのは言うまでもない。
 私もあとで知ったのだが、静岡県にある依頼人の実家はその地方の名家で、亡くなった父親は県会議員をしていたという。すでに両親とも他界していたが、長兄は地元の公立高校の校長で、次兄は裁判官、彼女の夫が相談した姉も大手企業の重役に嫁いでいた。彼女は、兄弟の中でも年が離れた末っ子で、両親はもとより兄や姉たちからも甘やかされて育ったようだった。
 お姉さんは何度も彼女に会い、思いとどまるよう説得したが、依頼人は頑として受け入れず、夫もここに至ってはお手上げになってしまったようだ。
「夫には本当に感謝しています。最初こそ私を責めましたが、私の決心が固いことが分かると、子供を置いていくことを条件に離婚に応じてくれたんです。しかも、私が生活に困らないように相当な額の財産を分けてくれました」
 彼女の元夫の心中を察して、私は思わずため息が出たほどだった。離婚して晴れて独身となった彼女は、「僕の自宅の近くに住んでほしい」という彼の希望を受け入れ、マルヒ宅の近くのマンションに転居した。そして、いまは「僕だけの君になってくれ」と懇願した彼の言葉どおり、彼の訪問だけをひたすら待つ人になった。私は口にこそしなかったが、「これじゃあ、まるでお妾さんだな」と思ったものだったが、もしかして、お妾さんよりもっと悪かったかも知れない。
「今住んでいるマンションは2LDKなんですが、私がそのマンションに引っ越すと、彼はまるで子供のように喜んでくれて、朝夕の行き帰り、毎日のように立ち寄ってくれるようになったんです。学校の先生なんて、給料もそう高くないでしょう?彼の財布を見て、あまりお金が入っていないときは、ちょっとお小遣いを入れてあげたこともあるんですよ」
彼女はむしろ楽しそうにこう話したのだが、マルヒにとっては正に至れり尽くせりのお妾さんだろう。
それにしても、彼女はなぜ、あんな男にあれほど入れ込んだのだろうと不思議でならないことがあった。彼女が息子の担任にその想いを告白されたのは三十七歳のときである。分別もある年齢で、優しい夫と幸せな家庭があった。そんな人妻が、生徒の母親に愛を告白するような軽薄な教師に、まさに身も心もすべて捧げてしまったのだ。
 私は彼女からこんな話も聞いたことがあった。
「私が離婚しても、いっこうに彼が離婚する気配がないので、あるとき〝どうなってるの?〟と聞いたことがあるんです。彼が〝妻がなかなか承知しなくてね。いま弁護士に頼んで進めている〟と言うので、私が〝いつもそんな言い訳ばかりね。本当に分かれてくれる気があるの〟と詰め寄ったんです。すると、彼は急に不機嫌になり、二、三日、マンションに来なかったんです。その間、そのまま彼が来なくなったらどうしようと思うと不安で不安で……。もう二度と彼が嫌がる話はしないようにと思ったものでした」
 またあるときは、ひとしきりベッドで愛し合った後、ふと、
「あなたの奥さんってどんな人かしら。見てみたいわ」
 と口にしたことがあったという。
 すると、隣の彼の体がギクッとなったのがありありとわかった。枕元のスタンドの薄明かりで彼の顔を見ると、怒りとも恐怖ともつかない強張った顔をしていた。
「彼はベッドを出ると、何も言わずマンションから出て行ってしまって……。私は彼に嫌われたのではないかと思って、その夜はずっと泣いていました」
彼女が寂しそうにこう話すのも聞いたことがあるのだが、ひたすら男に愛されたい、どんな仕打ちをされても捨てられるよりいい、こう一途に思う彼女の心情は、男の私にはとうていわからないものだった。世間知らずと言えばそれまでだし、恋愛の免疫なく「男に溺れているだけ」と言えばそのとおりなのかも知れないが……。

≪9≫
依頼人から電話があったのは「工作活動」をした翌日の午後四時過ぎだった。
弾んだ声で、
「うふふ、楽しかったわよー。彼は昼過ぎに出て行ったんだけど、すぐ私の部屋に引き返してきて、〝止めていた車がないんだ。知らないか?〟って青い顔をして言うの。私が〝知らないわ。大家さんに聞いてみたの?〟と言うと、バタバタと大家さんに聞きに行って、〝やっぱりないよ。どうしたのかな〟って、頭を抱えて座り込んじゃって。大成功よ。私、家に帰って奥さんからなんと言われるかと想像したらワクワクしちゃったわ」
 ところが、一番肝心な奥さんの反応は、我々が想像したより小さかったようだ。
 その二日後、依頼人の部屋を訪れた岡田教諭は、彼女にこう言ったという。
「オレの車、どこにあったと思う?家にあったんだよ。なんでも、夜中、誰かがゴルフクラブでバックミラーを壊したらしくてね。警察が来て、うちの女房に車を引き取りに来させたらしいんだよ」
彼女が「奥さんは何と言って?」と聞くと、
「いや、車のことを言われたのは、夜寝る時だったんだけど、適当に誤魔化したさ。うちの女房はあんまり頭がよくないから、騙すのなんか簡単だよ」
 どうやら奥さんの「あまり物事を深く考えず、よく言えば天真爛漫な性格」が裏目に出てしまったようだ。

依頼人のお姉さんと言う人から電話があったのは、工作活動をしてちょうど一週間が過ぎたときだった。
「妹のことで、ぜひお会いしたい」
 と言うので、翌日、Tホテルのロビーで会ったのだが、依頼人から「姉は一流企業の重役夫人」と聞かされていた私は、ちょっと気おくれした。ひとつにはあの工作活動をしたことに後ろめたい気持ちもあった。だが、依頼人のお姉さんは意外にも気さくな女性だった。彼女はまず、
「妹がやっかいなことをお願いしまして」
 とねぎらって頭を下げた。
 離婚した妹のことを心配してマンションを訪ねた彼女は、妹から私のことを聞き、第三者の意見を聞きたくなったのだろう。テーブルのコーヒーを一口飲んだ彼女は、ズバリ、
「妹が好きだという岡田さんは離婚する可能性があると思いますか?」
 と聞いてきた。私は彼女を見ながらゆっくりと言った。
「まず百パーセントないでしょうね」
 そして、彼女が自殺を図ったことを聞いたため、依頼を断れなかったと付け加えた。姉は「本当にご迷惑を掛けます」と言ったあと、
「私はもうあんな経験をしたくありません。所長さんの力で何とか妹の目を覚まさせていただけないでしょうか」
 しっかり者の姉にとっても妹の自殺騒ぎはだいぶショックだったようだ。そのあと、ちょっと声を潜めるように「主人の立場もあって……」と言うのだが、それは私にも十分に理解できることだった。上場企業の重役にとっては、たとえ妻の妹でも新聞沙汰になることは避けたいのだろう。
 私が、
「まあでも……こればかりは妹さんご自身の気持ちですから」
 と言うと、重役夫人は、
「あのこんなお願いをしてはご迷惑かも知れませんが、私と所長さんで岡田先生に会ってみたいと思っているのですが、いかがでしょうか?岡田先生も私たちになら本当の気持ちを言うんじゃないでしょうか?」
 なるほどと思い、私もこの提案に賛成した。

(8)につづく

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