『漁火(いさりび)』(2) レジェンド探偵の調査ファイル,人探し(連載)
『現役探偵の調査ファイル 七人の奇妙な依頼人』 福田政史:著
【第一話】漁火(いさりび)
1 後半
私が豊浦町にあった祖母と叔母の家に預けられたのは、終戦後すぐのことだった。戦前、朝鮮に渡った私の祖父母は、京城(現ソウル)で私の母をもうけた。その母が結婚して生まれたのが私である。昭和二十年十一月、母方の生家だった豊浦町に引き揚げてきた。ところが、両親はそのあとすぐに離婚し、当時まだ一歳だった私を二人に預けたのである。今となっては両親がなぜ離婚したのか、なぜ私だけ祖母と伯母に預けたのか(私の兄と姉はそれぞれ父と母のもとで育てられた)よくわからないのだが、祖母は私が六歳の時に亡くなったため、それからは生涯独身を通した伯母に育てられることになった。
母方の家は終戦まで朝鮮で五本の指に入る資産家だったそうだが、戦後のどさくさであらかたの財産は失ったらしく、豊浦町の海に面した家は土間付きの台所のほかには二間しかない質素な家だった。
伯母は看護師をしながら私を育ててくれたのだが、甥の私に溢れんばかりの愛情を注ぎながらも、「行ってきます」「ただいま帰りました」と挨拶をしなければ、ピシャリと叱る厳しさを持った人だった。
気位が高かった伯母は生活が苦しくても弱音を吐くことがなく、暑い夏の夜など、私を家から数十メートルしか離れていない海辺に誘い、夜の海を見ながら、朝鮮で生活していたころの楽しかった暮らしや思い出を歌うように話してくれたものだった。歌も好きだったのだろう。土間で夕食を作るときは、戦前に流行した『緑の地平線』や『国境の町』を口ずさんでいることもあった。
なぜか忘れぬ 人故に
涙かくして 踊る夜は
濡れし瞳に すすり泣く
リラの花さえ 懐かしや
『緑の地平線』の歌詞はまだ私の耳に残っているほどだ。
この伯母から本当の子供ではなく、甥であることを教えてもらったのは、小学生の頃だったか、それとも中学生になったばかりの時だったのか、はっきり覚えていないが、実の親ではなく、伯母に育てられる引け目はなかった。当時は私と同じような子供も多かったからだろう。当時の豊浦町はA村のS港と同じような小さな港がいくつかあり、漁業を営んでいる人が多かった。人々は人情に厚く、そしてまっすぐ生きていた。私の少年時代は豊かな自然と人情が溢れるなかで暮らしたいい思い出が多い。
その伯母が亡くなったのは、昭和四十八年十二月で、ちょうど満七十歳だった。
足下も見えないほど暗くなったので、私は車に乗り民宿に帰ると、夕食を済ませて早めに布団にもぐり込んだ。食事の時に飲んだ燗酒と六時間以上もドライブした旅の疲れもあり、すぐに眠りについた。かすかな潮騒の音のせいだったのだろうか。その夜、伯母が亡くなって初めて、その人の夢を見た。