『山中湖にて』(2) レジェンド探偵の調査ファイル,浮気調査(全11回)
『現役探偵の調査ファイル 七人の奇妙な依頼人』 福田政史:著
【第五話】山中湖にて
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この上品そうな依頼人の話は、あっちに飛んだかと思うと、こっちに飛ぶといった具合だったが、その話をまとめると次のようになる。
依頼人は、二年前に神奈川県K市で輸出入商社を経営している四十八歳の夫と離婚したのだが、これは彼女から望んでのことだったという。
「といっても夫が浮気したとかそんなのではありません。夫は真面目で仕事一筋でしたが、家庭では中学三年になる一人息子の優しい父親であり、妻の私のことも本当に愛してくれました」
自宅は大田区の高台にあり、「リビングの他に七部屋あった」というから、かなりの豪邸なのだろう。
「私、外出することはあまり好きではありませんで……。家事の傍ら好きな読書をする、そんな生活に不満を感じたことは一度もありませんでした」
経済的にも恵まれ、幸せな人妻の人生が大きく狂いはじめたのは、一人息子が都内の有名私立中学に入学した時からである。
「息子が入学して間もなく、学校で保護者と先生の二者面談があったのです。そのとき初めて、担任の岡田先生と話したのですが、彼は私を一目見たときから“これは運命の出会いだ”とお感じになったらしいのです」
当時のことを思い出したのか、依頼人はほんのり頬を紅らめている。
担任の岡田教諭は、当時三十七歳だった彼女より三つ年下で、妻と三歳の子供もいたという。既婚の教師もひとりの男である。生徒の母親に恋心を抱くこともあるのだろうが、実際にそれを口に出すことはそうそうないはずだ。ところが、この教師は二者面談があった四日後、彼女を学校に呼び出すと、いきなりこう言ったという。
「お母さん、僕とつきあってください」
そして、
「僕はあなたをひと目見たとき、自分はこの人を愛するために生まれてきたんだと確信したんです。あの日あなたに出会って以来、本当に夜も眠れなくて……教壇に立っていてもあなたの顔が目に浮かぶほどなんです」
と、目に涙を浮かべ、切々と自分の心情を吐露したという。
息子の担任教師に呼び出されて学校に行ったところ、いきなり愛を告白された——事実は小説より奇なりというものの、こんな早い展開はTVの二時間ドラマでもないだろう。
「はあ……それで? あなたはどうなさったのですか?」
私は半ば呆れながら、目の前の依頼者に聞いた。
「いえもう……最初はびっくりしたのですが、あの先生がまっすぐ私の目を見ながらおっしゃる真剣な様子に、なんだかジーンとしてきてしまって……」
私は彼女の言葉に声も出なかった。普通なら、
「なにをバカなことをおっしゃってるんですか! 私は人妻ですよ。しかも、貴方が受け持っている息子の母親なんですよ。二度とこんな戯言を言うなら校長に言いつけます」
こう言って憤然と席を立つところだろう。ところが、この奥さんは「ジーンときた」というのである。唖然として見つめている私を、「その気持ちもわかる」と思っているとでも解釈したのだろうか、彼女は堰を切ったように話しはじめた。
「あの先生には、きっとまだ少年の心が残っているんです。自分の気持ちに一直線で、好きだっていう気持ちを抑えられない。きっと情熱家なんでしょうね。私に話すときは目がキラキラしていて、あの目に見つめられると、女なら誰だって何も言えなくなると思いますわ」
「生徒の母親」を掻き口説いた教師を、手放しで誉める彼女に、私はだんだんバカバカしくなり、彼女の言葉を遮って言った。
「で、あなたは彼の愛を受け入れたと?」
「ええ。私も最初はどうしようかと迷っていたのですが、彼が毎日のように電話をかけてくるんです。あの燃えるような情熱に、私の心も少しずつ傾いていき、彼が言うように“運命の出会い”なのではないかと思えるようになって——」
とうとう「先生」が「カレ」である。私はなおも喋り続けようとする彼女を片手で制しながら言った。
「それで、私にどんな調査をしろというの?」
彼女は、私の言葉を聞くと、ハッと夢から覚めたように私の顔を見た。
しばらくうつむいて考えた後、ストンと声の調子を落として言った。
「私が夫と離婚したのは、彼に夫と別れてくれと言われたからだったんです。彼もいまの奥さんと離婚して、私と結婚すると言うのでそうしたんですが……。でも、彼はなかなか奥さんと離婚しないんです」
こういうと、私をキッと見据えるようにして続けた。
「調査をしていただきたいのは、彼が離婚するつもりがあるのか、彼の家庭が破綻する可能性があるかということなんです」
私はさっきとはうって変わった彼女の声に、思わず聞き返した。
「彼はいまの奥さんと別れて、あなたと結婚すると言ったのですか?」
「ええ、そうです」
彼女は心持ち胸を張るように言った。
私は、この手の不倫話を聞くといつも思うことがある。
妻子ある男が、あるいは夫を持つ妻が、配偶者以外の異性を好きになる。これは、ある意味で仕方ないことなのだろう。好きになるという感覚は抑えられないからだ。そして、勇気ある夫や妻(自制心がない夫、妻と言えるかもしれないが)は、ここからさらに一歩踏み出して肉体関係を持つこともある。もちろん、ここまでもそんなに珍しいことではない。
ところが、世の中には、恋人との逢瀬の最中、女を喜ばせようとして言わずもがなの甘言を口にしてしまう馬鹿な男がいるのである。
「君ともう少し早く出会っていれば」ぐらいならまだしも、「妻とはうまくいってなくて、ほとんど家庭内別居状態にある」。挙句の果てに「将来、妻と別れて君と一緒になりたい」などといった“禁断の言葉”を口走ってしまう……。
だが、この男は、妻の人生はどうなるかと考えないのだろうか? 「他に好きな女性ができたので、お前とは別れたい」と切り出されて、「ああそうですか。わかりました」と承知する奥さんはまずいない。男というものは、結婚したら妻や子供に対する責任が生じる。これを思えば、そうそう簡単に浮気相手に「君のことが好きだから妻と別れる」とは言えないはずだ。
依頼人の恋人は、既婚者が口に出してはならない、“禁断の言葉”を囁いたばかりか、相手の人妻に夫と離婚するように迫って実際に離婚させている。この時点では、依頼人の恋人が奥さんや子供と本当に別れるかどうかわからなかったのだが、(馬鹿な男だ。これが本当に学校の教師なのか)と半ば憤りさえ感じていた。
こう思うと、愛してくれた夫と可愛い子供を惜しげもなく棄てて禁断の恋に走った目の前の人妻に、哀れみさえ感じてしまった。子供が中学校に入学してすぐに不倫恋愛を始め、その子供も中学三年になったというから、すでに二年半も交際しているはずだ。
「つまり……息子さんの担任は、あなたがご主人と別れたというのに、いまの奥さんと別れる気配がないというわけですね」
私は疲れてしまい、ちょっと投げやりな口調で彼女に聞いた。
「そうなんです。彼は“自分の家庭はすでに崩壊している。妻とは離婚の話も出て、間もなく別れることができるはずだ。僕はあなたと一緒になりたい一心で精一杯の努力をしている”というのですが……」
ここまで言うと、彼女は私に訴えるように言葉を続けた。
彼は、私に奥さんとは夫婦生活も一切ないと言っていたのですが、最近になって二人目の子供ができたらしくて……。もう一体どうなっているのか、私もわからなくなってしまって。調べていただきたいのは、そのこともあるんです」