『山中湖にて』(11) レジェンド探偵の調査ファイル,浮気調査(最終回)
『現役探偵の調査ファイル 七人の奇妙な依頼人』 福田政史:著
【第五話】山中湖にて
11
それから三、四か月も過ぎた頃だろうか。東京もすっかり春めき、西から桜の便りが聞かれる頃である。その日は日曜日だったが、私は用事があって事務所に行った。探偵家業に夜も昼も休日もない。
私は車を事務所があるマンションの前に停め、六階にある事務所に行く前、メールボックスを覗いてみると、白い封筒があった。私宛で会った。裏を返して、差出人の名前を見た私は、一瞬ドキリとした。日々の忙しさに紛れ、すっかり忘れていたが、長谷川悠子と名乗ったあの依頼人だったからである。
渋谷の喫茶店でマルヒと会った後、お姉さんは依頼人である妹のもとに行き、
「あなたが好きになった先生は離婚する気持などまったくない。本人に別れるように申し渡したので、あなたも彼を諦めなさい」と説き伏せたという。
その後、一か月ぐらいして、私も彼女と一度だけ会ったことがある。場所は、彼女のマンションの近くのファミリーレストランだった。久しぶりに会った彼女は、意外に明るく元気だった。スパゲッティを食べながら、何か憑きものが落ちたようなサバサバした感じで、「今度の正月は息子を連れてカナダにスキーをしに行く予定だ」と嬉しそうに話していたのである。私もそんな彼女の様子に安心して、店を出る間際、「男なんて星の数ほどいるんですから、今度はいい人を探してください。貴女は美しくて、しかも独身なんだから」と言ったのだが、この時の彼女の反応がなぜか心に引っかかっていた。
「私、主人と先生しか知らないから……」
その表情はハッとするほど寂しそうだったのである。
メールボックスの白い手紙を見たとき、私はあの寂しそうな顔を思い出すとともに、全てを語った。
封筒の裏には住所が書いて無く、長谷川悠子という名前だけである。
(まさか……そんなことはないよな。息子さんとカナダへスキーに行くと楽しそうに話していたんだから)
私はその場で封筒を開けることができず、事務所に入ると、半ば祈るような気持ちで白い封筒を開いた。中には便箋一枚と現金三十万円が入っていた。
そして、その便箋にはこう書かれてあった。
《所長さんには、いろいろとご親切にしていただき、ありがとうございました。お仕事とはいえ、嫌なこともお願いし、申し訳なく思っています。
所長さんは、私のことを愚かだと叱ってくれましたが、私にとっては命を賭けた恋でした。
この手紙が届くころ、私は死んでいるでしょう。
ただ、岡田先生のことは恨みます。あんな人がこれからも教壇に立つのは許せません。同封のお金で、彼の学校に私のことを書いて手紙を出してください。少なくてすいません。もし、出来ないようでしたら調査員の皆さんに、何か美味しいものでもご馳走してあげてください。 山中湖にて》
私は、少し震える手で受話器を取ると、彼女の姉に電話した。しかし、姉は不在で、コール音だけが空しく響いた。私はそれから夜の八時ぐらいまで焦燥感や後悔に苛まれていた。
八時を少し過ぎた時、やっと姉が電話に出た。
「探偵の福田です。何かありましたか?」
と聞くと、姉は疲れ切った声で答えた。
「いま、山梨県の富士吉田署から帰ってきたばかりです……」
その声を聴いて、なにかやり切れない気持ちになった。
「悠子は、富士山の五合目あたりまで車で行き、そこで致死量の睡眠薬を飲んで自殺したそうです。もう、悠子は……悠子はいません……」
彼女はこう言うと電話口で嗚咽した。
私は、葬儀の日取りなどが決まったら教えて欲しいと言って電話を切った。そして、すぐに岡田教諭の自宅に電話をした。電話に出た男に、
「昨年お会いした悠子の従兄です。今日、悠子が死にました」
とつとめて冷静に言ったあと、少し口調を変え、
「君は悠子が死んだら一秒も生きていないと言ってたよね。約束どおり死んで、悠子のところに行ってやってくれ」
と怒りを押し殺して続けた。
すると岡田は、又しても「少し待ってください」と言う。私は、
「いや待てない。なんなら俺が手伝ってやる。お前の家の前に多摩川があるだろう、ぐずぐず言ってないで早く死んでしまえ」
と怒鳴った。なんとも空しい抗議である。
受話器を通して、子供らの笑い声が聞こえてくる。平凡な家庭のアットホームな雰囲気が、私の心にやるせない悲しみを運んできた。
数日後、岡田は勤めている中学校を解雇された。父兄たちは「あんなにいい先生が、なぜ?」と訝しがったそうだが、私には、幸せな家庭の主婦であった依頼人の人生と命を奪った男の罪としては軽すぎるとさえ思った。
後日、人伝手に聞いたことだが、学校を首になった岡田は、「あんな学校自分から辞めてやった。学習塾の先生の方がよっぽど収入がいい」と嘘吹いていたという。
日本経済はバブル期に突入し、人の心が荒み始めたころだった。