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映画『ソーシャル・ネットワーク』におけるエリカという最大のフィクション


実際の出来事・人物を元にした映画を見た後はついついどこまでが事実でどこからがフィクションなのか調べたくなってしまう。もちろん視聴後の余韻が台無しになることも時々あるのだが(ビューティフル・○インドとか…)。

Facebookの誕生を描いた『ソーシャル・ネットワーク』でも調べて最初に驚かされるのは、冒頭5分で主人公と別れ、その後も重要な役割を陰ながら担っているエリカがどうやら実在しない人物ということだ。※1


事前に弁明しておくと、映画自体は同じくデヴィット・フィンチャー監督作である『ファイト・クラブ』と並ぶ傑作だと思っている。どちらもホモソーシャルとしての男社会と、その下位に属するオタク達のマッチョ主義への歪んだ憧れとコンプレックスを鮮やかに描いている。

特に『ソーシャル・ネットワーク』では主要人物の誰も彼もが女のことしか頭にない。ザッカーバーグの対局として描かれるウィンクルボス兄弟にしても、彼らが作ろうとしているサイトは女と繋がるためだと公言してはばからない。

一方の女性側もファイナルクラブへ大型バスで乗り込んだりしていて(上部構造に属する男性達へ動物のように出荷されていることの比喩?)好意的な表現はされていない。要するに、この映画の中ではFacebookが提供する「つながり」とは、そうした男女双方の大学生が抱く欲望が原型になっているのだ。

Facebookが大学生向けのサイトとして始まったことを考えると、その表現はあながち間違っていないかもしれない。だが、現実世界にFacebookが生まれた理由としては、エリカとの破局がきっかけとされているにも関わらず、彼女の存在がフィクションである以上、実は全く説明になっていないのだ。

劇中のザッカーバーグの行動原理は1つだけだ。誰かに自分の存在と才能を認めてもらうこと。だから、彼は「性格がサイテー」と自分を捨てたエリカを見返そうと(あるいは認めてもらおうと)したり、そしてハーバードという最高峰の大学でさらにそのトップに属するウィンクルボス兄弟に対して裏切りという形で自分のコンプレックスをぶつけたりする。

視聴者にとってザッカーバーグの人となりを理解する手がかりはエリカが関係するシーン以外にはほとんどない。エリカが出てくると彼は人間味あふれる存在になる。中盤での再会シーンは哀れとしか言いようがないし、SNSをやったことのある人間ならあのF5連打に共感しない人間はいないだろう。だがそれ以外のシーンはFacebookという事業にしか関心がない。目の前のサベリンやパーカーが女だ金だと騒いでいてもどこか違う方向を向いている。

現在の妻であるプリシラ・チャンとは劇中の時期に出会っているにも関わらず一切出てこない以上、私達にとってはエリカの存在こそ彼を理解できる鍵なのだ。それがフィクションとなるとザッカーバーグなる人物に対して手がかりを失ってしまう。

では、なぜフィンチャーとソーキンはエリカという壮大なフィクションを映画の軸に据えたのか? 現実のザッカーバーグは何を動機にFacebookを作ったのか?

この疑問について、イギリス人作家ゼイディー・スミスが、"Generation Why?"と題したエッセイで考察している(書籍としては"Feel Free"に収録される形で出版されている)。※2 

余談だが、ザッカーバーグがfacemashを作った当時、スミスもフェローとしてハーバードに在籍していた。彼女もまた25歳で出した処女作『ホワイト・ティース』がベストセラーになっている天才タイプである。

スミスも現実のザッカーバーグの動機が他に存在するであろうことを認めており、エリカの存在を「成功者の裏に必ず女がいるというハリウッド的固定観念」だと評し、考察を続けていく。

 もし金のためのでも女のためでもないなら――何のためか? ザッカーバーグは私達にとって真にアメリカ的なミステリーである。でももしかしたら謎ではなく、彼はただ長いゲームをプレーし、戦い続けているだけなのかもしれない。10億ドルではなく1兆ドルを目指して。それかただプログラミングが好きということもあり得るのだろうか。その選択肢も映画製作者達は考えたに違いない、しかしそこにはジレンマがある。どうやってプログラミングの喜びを伝えるのか―そんな喜びがあるとして―映画として、かつ理解し得る方法で。映画は創作の楽しさや厳しさを表現することが下手なことで有名なのだ、たとえその芸術が馴染み深いとしても。

つまるところエリカという存在は、ザッカーバーグ本人に取材を断られ情報が少ない中で、彼を創るために用意された古典的な舞台装置ということになる。だがその映画的な手法ゆえにこの映画は成功したのだろう。もしザッカーバーグにインターネット革命のような野心があったとして、それを映画のテーマに据えたとしても、その映画はきっと『ソーシャル・ネットワーク』にはなれなかっただろう。

Facebookを作った動機についても、スミスはザッカーバーグの言う「つながり」という言葉の意味を紐解いていきながら最終的にこう結論付けている。

個人的には、ファイナルクラブは核心ではないし、排他性や金が核心であったとも思わない。エ・プルリブス・ウヌム(多数から一つへ)――それが核心である。私の推測はこうだ――彼は他の人々のようになりたいのだ。好かれたいのだ。映画が公開されたまさにその日に、ニューアークの学校システムに1億ドルを寄付した一見不器用な彼のPR活動を、古い世代の人々は全く理解できなかった。※3

奇しくもスミス個人の見解は、映画と同じ方向へ収束していく。彼もまたスミス自身と同じく、他者から好かれることを望み、嫌われることを恐れているのだと。

エリカは確かに脚本上で創り上げられた存在だが、彼女が個人ではなく他者という集団的な概念であると考えれば、ラストシーンのように孤高の天才が繋がりを求めようとする行為と、本物のザッカーバーグとの間に違いはそれほどないのかもしれない。





※1:とある女性をネット上でビッチ呼ばわりしたところまでは事実らしい

※2:エッセイ自体のテーマは、ハーバード大学2年生が作った世界観に私達が『捉われている』現象を皮肉るものだが結構読み解くのが難しい

※3:この寄付は残念ながら有効活用されなかったらしい



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