【メモ】近代・脱近代・現代の演劇創作
論旨
演劇創作の中でよく議論に上がる「作品が先か」「環境が先か」という問い(自分のサークルでは「劇団かサークルか」という言い方がされていた)は前現代的。脚本vs役者、作り手vs受け手、トップダウン制作vsボトムアップ制作など言い方は毎回違うが、このような“全体”と“部分”の二項対立で議論してしまうこと自体が、パラダイムとして既に一つ遅れていると言える。
経験
演劇には「目的に合わせてデザインするもの」と「環境から自然に立ち現れるもの」の二種類があると考えていた自分は、後者から前者にシフトする実験として、先日「コントロール」という芝居の台本を制作した。
簡単に言うと「脚本が露悪的に舞台を掌握すると、演劇作品はどうなるのか?」という意図が原案作成の根幹にあったのだが、この視点そのものが非常に近代vs脱近代的な構図に依拠している。
現代的に言えば、舞台は脚本が作るものでも、役者が作るものでもない。
「僕のシナリオは完璧です」も「完璧になんて意味ないですよ」も同じく虚構的なスタンスだ、ということが実際に上演してみる中で分かってきた。
主題
恐らく、今の演劇創作のリアリティは「作品主導」でありながら「環境主導」でもある、という矛盾に満ちた創作形態にあるんだろうな、と思う。
「この演劇作品の本質的な価値はここだ!」と「演劇はライブ性に満ちた自由な芸術だ!」という視点が両立する、ここに現代の創作の面白さがある。
これは演劇に限らないムーブメントだ。実学や虚学の境界は実に曖昧だし、そもそも人間だって社会的存在と心的存在の重ね合わせで存在している。
近代も、脱近代も、先鋭化させることが善という意味では同じ次元にあったが、現代においては両立することが可能に、そして重要になってくる。今や「サークルと劇団の両立」「再現性と一回性の両立」「運命と自由の両立」は可能だし、それを実現するためにVUCAに耐える創作姿勢がスタンダードになっていくと思う。
余談
ちなみに、演出家という職業そのものがプロットとアクトの隙間で、ずっとこの現代主義的な役割を模索してきた……という演劇史的な背景もあるようだが、これについては流石に僕のような素人では語れない範囲だ。
口惜しいが、いずれは議論に含めたいと思う。