外向的であることが美徳とされる世界での内向的な人の生き方

ふと思ったことがありまして。

小学校6年生の時に、神奈川県から九州へ引っ越しました。
九州の人にとっては、神奈川県も東京も同じでした。都会の子、都会だからって自慢しているんじゃないよ、そんな目で見られていたとは知らず。

まだ子供だった私は、九州の学校のクラスメイトがどう自分を見ているかなんてわかりませんでした。私にとっては、神奈川県の自分が通っていた学校の続き、くらいにしか思っていなかった。

九州の学校は、私の通っていた神奈川県の学校よりパワーがあって、みんな感情を丸出しにしてパワーを爆発させていました。方言によって、さらにそのパワーが増強されていたのでした。

そもそも、神奈川県にいた時も公立の小学校に通い、九州でも公立の小学校に通いました。神奈川県では、小学校1年生の時にしか通学帽を被らなかったのに、九州の学校で6年生も被って通学する。色は、黄土色のような微妙な色。。。

「神奈川では被っていなかったよ」
この一言で全てが変わってしまった。それを機に、私は聞かれてもいないのに、神奈川に居た時の思い出が懐かしく、何回か前の学校のことをクラスメイトに話した記憶があります。

ある日、私の下駄箱に手紙が入っていました。

「そんなに神奈川が良いなら、神奈川に帰れ!!」

教室に行くと、誰も私を見ようとしません。今まで一緒に学校に行ってくれていた子さえ、無視です。

あぁ……私はここでもイジメに遭うんだ。。。。

転入の挨拶の時に、担任の先生が「神奈川の子に負けないようにみんなも頑張らないと!」と言ったから?私は目の敵にされたの?

私だって、帰りたい。九州なんかに来たくなかった。
みんな、神奈川の学校の子より、パワーがあって田舎っぽくて、野性的で……それに圧倒されて、何を話したら良いかわからなかったのよ。自分が少しでも、何かを話さないと……と自分なりに頑張って話せたことと言えば、それが神奈川の学校でのことだった。

興味を持つことが違いすぎる……

そう思いました。
神奈川に居た時は、朝から晩まで外で鬼ごっこしたり、みんなとプールに行って、誰と一緒に行くかが重要ではなくて、自分がその遊びをしたかったら参加する、シンプルだった。室内でゲームしたり、絵を描いたりするなんて遊びをしたことがなかった。

一方、九州の学校では、遊ぶと行ったら友達の家に行って、漫画を読んだり絵を描いたりする。。。私はその遊びがよくわからなかった。

「どうして、1人でできる遊びを友達と一緒にしないといけないの?」

だから、全然面白くなかった。宿題を一緒にやろうと言われても、1人の方が集中できると思ったし、外で遊ぶ訳でもない。

それに、どうにかして方言を話さないと仲間に入れないような気がする。
頑張って、方言を話さなきゃ。でも、何を話したら良いの?

この学校面白くない……

そこから10年に渡り、今で言う適応障害らしきものを発症していたんだと思います。九州にいる間。

神奈川県にいたときは、一定数大人しい控えめな人、優しそうな人、というのがどのクラスにもいた。だから、そんな子と仲良くしたり、時には男子と喧嘩しているのを仲裁したり、、、、我ながら大胆なことをしていました。

「どんな人とでも仲良くできる」
それが私の自信でした。コミュニケーション能力が子供のくせに高い方だと思っていました。九州に引っ越す前までは。

九州には、内向的な人というのはいないのでしょうか?
と思うほど、私の周りには繊細な心の機微をわかる人はいませんでした。
みんな、心が強くて鈍感で、転校してきた私にも何でもはっきり言ってくる。
その言葉を聞くたびに胸が詰まって何も言えなかった。

みんな外向的だから?

今でこそ、内向的な性格が強く出てしまっているのはきっと、九州で馴染めなかった経験があるからなのでしょう。誰しも、外向的な面と内向的な面はあります。その中で、内向的な性質が強化されてしまった。
この野性的な、人の事を気にしないでいられる、何でもはっきりと言う、、、、この感じ。そうだ。コレ。

ドイツ人が見せる乱暴な自己主張のようだった。

だから、きっとドイツから逃げ出したんだ。子供の時、この乱暴な感じが嫌いだった。

みんな、何でもはっきり自己主張する。深く考えるよりも、まず言葉に出すことの方が重要。。。共通点がありました。

九州にいた10年間、私は石のように堅い、能面のような顔をしていた。
心から笑ったことは、ごくわずか。心から笑うことができていた、神奈川県にいた頃を懐かしく思い、東京、神奈川、というエリアを恋愛対象のように愛し続け、いつか神奈川に帰るんだ。そんな日を夢見て、九州から脱出できるようにどう生きる力をつけるか……それを日々考えていた。
私の心は、九州にはありませんでした。

中学、高校のクラス替えの時、内向的な人のクラスというものを作ってくれたら良かったのに、とふと思ったのだ。

外向的な人の世界では、素の自分を見せることはそんなに難しいことではないし、大概誰とでも仲良くできる。そして、自分のリフレッシュの手段として、自分の外側に楽しみを求める。

そういう世界の住人からすると、大人しいこと、控えめなことは美徳だとは思わないだろう。答える前に、考えてから口に出すこと、相手の気持ちや立場を推し量って、言葉にすること。そのための時間が必要なこと。話す時に穏やかなこと……それは、もしかしたら外向的な世界の住人にとっては、扱いにくい人になるだろうし、心の傷でもあるの?トラウマある人?と思われるかもしれない。

内向的な人は、誰とでも友達になれるわけではない。友達になれた時点でその関係は、絆ができている。それくらい、慎重に選ぶ。
本当に気の合う人と深く繋がりたい。そして、自分のための静かな時間も大切にしたい。

住んでいる世界が違うのだ。その中で、外向的な世界の住人からは、勘違いされて家来同然にされたり、マウンティングをされることもある。
自分の優越感を満たすための道具に自然となってしまう。

それって、内向的な人が引き寄せているんじゃなくて、外向的な世界の人たちは、外に刺激や楽しみを求め、外に自分の感情の解決を見つけようとする。
心にひっかかりがあったり、自分は劣っている……そう思うと誰かを人質にし、自分の劣等感や優越感を満たすために使う。無意識でやっている。

私は違うのだ。内向的な人は、内省の時間を大切にして、自分の中で何でも解決できるように筋道を作ることができる。ただ、それを外に発信したり、相手を貶めて自分が優位に立つこと、などは考えもしない。

外向的な世界の住人は、私たちのことを、病んでいる、カウンセリングが必要な人たち……と、事実とは違う目で見るのだろう。
むしろ、言いたい。カウンセリング、癒しが必要なのはあなたたち、外向的な世界の住人の方ですよ……と。



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