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山梨大ADP #利他的デザイン/価値・願いのデザインを受講して

こんばんは、インハウスでUIデザイナー/POをしているふるじゅんです。

今回は、シナカフェでお世話になっているまりこさんから、お薦めいただいて「山梨大ADP #利他的デザイン /価値・願いのデザイン」という講義を受講してきました。

とても学びが深かったので、気持ちが熱いうちに感じたことを綴っておきたいと思います…!

4時間(2時間×2コマ)に及ぶ講義だったため、その中から自分的に刺さった内容に絞って感じたことを書きたいと思います。


郷 健太郎(山梨大学)教授の講義 「利他的デザイン」

自身の「使われなかったサービス」の体験で得た着想から、利他的なデザインとは何かについて考える講義をしてくださいました。

利他的デザインとは?

はじめにワークとして利他的デザインとは何か?について調べるという時間がありました。私のGPT-4くんの見解によると、以下が利他的デザインとのことです。

利他的デザイン(Altruistic Design)は、他者や社会の利益を優先して考えるデザインのアプローチです。このアプローチには以下のような本質的な特徴があります。

1. ユーザー中心のアプローチ:
利他的デザインは、ユーザーのニーズや問題を深く理解し、それらを解決することに焦点を当てます。ユーザーの立場に立ち、彼らが直面する挑戦や困難を軽減するための解決策を提供することが重要です。

2. 社会的・倫理的責任:
社会的な影響や倫理的な側面を重視し、デザインを通じてより良い社会を構築することを目指します。これには、環境への配慮、公正性、アクセシビリティの促進、持続可能性などが含まれます。

3. 包括性とアクセシビリティ:
すべての人々が利用しやすいデザインを目指します。これは、障害を持つ人々を含む多様なユーザーが同じくらい簡単に製品やサービスを利用できることを意味します。デザインは排除するのではなく、包摂するものであるべきです。

単に機能的な製品やサービスを提供するだけでなく、社会全体の利益を考慮し、ポジティブな影響をもたらすことを目標とします。

出典: うちのGPT-4君

ここで、感じたのは「ユーザーの立場に立つ」って簡単にいってくれるけど、正直ちゃんとできている自信がずっとないということです。

ぶっちゃけ、ユーザー自身も正解がわからない中で、部外者の自分がペインを完全に理解できるとは思わないし(という捻くれ者なだけかも)、作り手が自分たちの理想を押し付けて現場と揉める、的なことは世界中どこでも起こっているでしょう。

また、「良い社会」とありますが、これってなんでしょうか?みんなにとって良い社会が同じなら、戦争なんて起こってないぞ!!とか思ったりしました。

この文章を読むだけでも、利他的デザインというものが、いかに簡単ではなく、ある人にとっては迷惑でうさん臭いものに見えるかというのが見て取れます。

利他を作り手が意識しないこと

そんな中で印象に残った話は、作り手のモチベーションだけでなく、ユーザーにとって・社会にとって良いデザインを「利他を作り手が意識しないこと」が重要であるとの主張です。

教授は以下の3点が、利他的デザインを成立させるために必要なアプローチではないか、と仮説を立てています。

  1. 作る行為が楽しい、作り手が没頭する仕組み(利他を意識しない)

  2. 作り手と使い手の時空間を擬似的に一致させる仕組み

  3. 使い手が作り手に思いを馳せたり、製品に手を入れたりできる余白を残す

ほほ〜確かに、作り手が自分の評価なんて投げ出してデザインできたなら、それは真の意味で利他的かもしれないし、ユーザーの立場に立つという仕組みを作るアプローチも重要だな、ユーザー参加型、なんてのも最近は聞くようになりましたよね。

それが設計できたら、良いだろうなぁ、と納得し始めていた矢先、2コマ目で、この仮説に対して、さらに深く考えさせられるお話をしていただきます。

安藤 昌也(千葉工業大学)教授の講義 「価値・願いのデザイン」

2コマ目では、1コマ目の話を引き継ぎながら、「作り手の願いを設計する」という話へ入っていきます。

ここで1コマ目と対照的に感じられ、とても考えさせられた点について書き記します。

UXデザインのよくある誤解

UXデザインのよくある誤解として、「ユーザーが欲しいモノを作る」ということであると教授は言います。

UXデザインとは本来、「ユーザーが嬉しいと感じる体験となるよう、ものやことを企画の段階から、理想のユーザー体験(UX)を目標として、デザインしていく取り組み方とその方法論」だということなのですが、

それは、「ユーザーが欲しいものを作る」わけじゃないんだよ!とおっしゃるわけです。

似ているようで違いますね。とてもわかりやすかった講義中の例として、以下のようなものがあります。

こども「チョコレートがもっと食べたい!」
父親「チョコレートがいつでもいっぱい食べられる機械を出してあげよう!」

出典: 突破するデザイン, ロベルト・ベルガンティ(ふるじゅんの記憶により作文)

とは…なりませんよね。父親なら、子どもの健康を願ってチョコレートを食べる量を制限したりするものですし、将来虫歯にならないように歯磨きをちゃんとしなさい、などとあるべき姿を願ってアクションするはずです。

教授は、この父親が子どもの未来を願うことは、ユーザーの行動変容を願う作り手の願いと似ている、と述べました。

気付きを設計する

また、それだけでなく行動変容のためには、子ども自身がこれは大切かもしれない…悪くないかもしれない…!などと気づきを得るために「気づきの設計」をする必要があると言います。

ここで思い出したのは、私が教育大学修士課程で学んでいた頃に、「環境整備」的な会話がよくされていたことです。

最近の教育では、教師が子どもに躾したり、何かを一方的に教えるのではなく、必要な情報を与えたり、問いを与えて共に議論したり、勉強に集中できる環境を作ってあげることで、子どもたちの自発的な気づきや学びを促すといったアプローチが良いらしい、とされていたりしました(少なくとも私が学んでいた頃は)

それと似たようなことなのかなと思ったりしました。

2つの講義から何を読み取れるか?

ここで疑問が生まれました。

1コマ目 … 使い手を第一に考えてデザインする利他的デザインとは
2コマ目 … 作り手が、使い手のあるべき姿と気づきをデザインする

これって、表面的に見ると対立関係に見えなくもないわけです。だって、作り手が考えるあるべき姿使い手が嬉しいと感じることが一緒である保証はどこにあるのでしょう。ひょっとしたら押し付けられていい迷惑かもしれません。

しかし、この二つの講義につながりがあると深読みして、何か学びを得ようとするならば、次のようなことが言えるのではないか、と自分の中で帰着しました。

使い手を第一に考えて利他的にデザインする。しかし、使い手は自分の幸せにとっての最適解を常に持っているわけではなく(使い手に聞けば答えがわかるものではない)、当事者ではないプロの視点から、部外者・他者として客観的にあるべき姿を提示する必要がある場合もある。

やや深読みしすぎかもしれませんが、自分の中では割と腑に落ちましたw

こんな体験ありませんか?

仕事の悩みを全く別の職種の方に相談したら、あっと驚くシンプルな解決方法が見つかった的な。盲目になっている当事者やその業界の常識を知らないからこそ気づけるアイデアもあるはずです。

まぁ、それをやるのが難しいという現実はあるのですが、表面上しか理解できていなかったUXというものを、少し網羅的・学問的に俯瞰することができたような気がした4時間でした。

貴重な学びの機会をいただき、ありがとうございました!

終わり!おやすみ!!

~~~~~~ 余談 ~~~~~~

お二人に共通していた姿勢が、受講者からの解像度高い質問に対して、「それはまだわかりません。考え中です!」と堂々と述べられていたことです。

研究すればするほど、わからないことも増えていく、けどわかることも増えていくそれが楽しい。

自分も多少研究者の卵を経験した身として、こういう姿勢を生涯持ち続けて学ぶことを楽しみたいなと思いました💓

webデザイナーのふるじゅんです。フォロワーが増えると良い記事を書けそうです…(´・ω・)♡