『お母さんは忙しくなるばかり』(More Work For Mother) 読書メモ
本書は、家事労働とテクノロジーの発展を道具論の観点から分析した書籍である。
二つの点で面白い本である。
一つは、現在のUXデザインでも使われるような観点が豊富に出てくること。もう一つは、家族のあり方自体を問い直し、仕事と私生活の関係性のトレンドをそもそもから考える時に有用な視点を与えてくれることである。
観点1:UXデザインの観点
一つ目の、本書に出てくる、現在のUXデザインでも使われるような観点は以下のようなものである。
・道具が人間の行動を組織するというものの見方、つまり何かをするやり方はそれに関わる道具の形によって制約を受けるという観点。道具の形が行動のパターンを作る。また、道具の形が新しいものに変わると、行動も変わっていくという観点。これはUXデザインの基本的な考えと同様である。
・あるいは、家事という行動には主に想起されるような概念ではなく(例えば炊事、掃除、洗濯、育児といった区分けではなく)、実際のプロセス(食材を用意する、貯蓄する、火を起こし調整する、調理用具を用意しておく、食材を調理する、調理中のゴミを処理する、食器を取り出す、盛り付ける、片付ける、コンロを清掃して維持する、というような全体のプロセス)を取り上げて分析しなければ実態が見えないという視点(これは最近は「見えない家事」という名前で注目が当たりつつある)。著者は、このいちいちのプロセスを見て実際に家事がテクノロジーの発展によって楽になっているかを分析している。工業化によって作業の一部が変わったかだけではなく、作業と結びついている連鎖が変化したかどうかを調べている。箒から掃除機に変わり、速く掃除できるようになったかを問題にするのではなく、掃除機の登場により発生したタスク(掃除機の移動、掃除機自体の掃除)がないか、それは以前の道具よりきつくないか、関わる人間が減りトータルの生産性は上がったが1人当たりの負荷は上がっていないかを問題にする。こうして全体を見ると、これはジャーニーマップの考え方やタスク分析に似ている。
・ また、道具は単独で成立せず、前提として何らかの人の行動(UXDでいうペルソナやシナリオ)を想定してその行動が組み込まれて初めて機能すること。具体的には、家電は、女性が常に家にいて操作やメンテナンスをできることによって機能していること。保健システムは、女性が子供の世話をしていて、病気になったら(医者が往診にくるのではなく)子供を送迎できることで成り立つ仕組みになっている。
・道具は社会インフラの一部に埋め込まれて設計されている点(本書内では「テクノロジーシステム」と定義される)。消費者の需要の前に、まずインフラが整備されていない限り、あたらしいテクノロジーは機能しない。水道が引かれてなければ水洗トイレは動かないし、電力網がないなら冷蔵庫は導入されない。どのようなインフラが整備されるかによって、どのような機器が発展するかは左右される。この観点は、現在のサービスデザインなどでは、分析や概念デザインの枠組みはないが、新しいテクノロジーの受容戦略を検討する際には、重要な観点であると思われる。
などの観点での分析が取り上げられており、非常に勉強になる。
観点2:「家族」のあり方の捉え直しとトレンド理解の観点
もう一つの観点は、家族のあり方、仕事と私生活の関係性のトレンドの観点である。現在、日本でもフルタイムの共働きが一般的になり、本書(1983年出版)のような、家事育児労働とフルタイム労働を含めた女性の過労状況が存在している。それを受けて男女観や家族のあり方の見直しが待ったなしの状況にある。この本はその中でこれからの家電や家を維持するための道具のあるべき姿を考えさせてくれる。
本書から学べることは以下のようなことである。
・家族は工業化以前では生活共同体で夫婦は事業を行うパートナーという役割があった。工業化により、家庭と仕事場が分離し、家庭には労働が残されたほか、癒しというイメージが付帯された。
・一般にイメージされている事実と異なり、家電を含めた工業化は、家事のやり方を変え、生活の質を向上させ、生産性を上げたが、女性にとっての家事を楽にはしなかった。家事テクノロジーの進化により、夫婦と子供によって行われていた家事は、女性だけで担えるようになった。また機械化によって、召使いもいなくなった。生活の質を向上させるために増える家事もあり、家事に費やさせる時間は変わりなかった。燃料の調達や穀物の加工といった、家庭で行われていた一部の仕事は工業化されアウトソースされたが、多くは男性や子供が担っていた仕事だった。食事の準備、縫い物、洗濯、掃除、家族の世話など女性の仕事は家庭に残り、それらは家庭の生活の質を向上させ維持させるのに重要であったため固定化した。一方で行商人や往診の医者がいなくなり、運搬の仕事については工業化以前より増えた。それは女性の仕事の増加を意味した。
・女性が行う家事を、共同体で行うことで外部化する試みというものも歴史上起こっている。ランドリーの集中化や食事の集中化、セントラル掃除機械、サービスアパートメントなどである。しかしこれらは失敗した。個別の失敗要因はあるが、人々がプライバシーと自治を優先するからではないかというのが著者の仮説である。
* 戦後、男性の給与水準がインフレに追いつかなくなったため、女性もフルタイムで働くようになる。しかし家事は残っているため、フルタイムの仕事と家事で既婚女性は構造的に過労である。著者は、生活レベルを下げるほかないという。前提となっている、生活レベルや性別に囚われた役割分担を見直すべきと書いている。
これを踏まえると、現在の時短家電や、見えない家事まで洗い出した上での家族での家事分担の再検討の流れは必然に見える。また、著者は主婦である生活者の立場で提言を書いているが、デザイナーの立場ではこの構造が見えてくると、以下のようなことも考えられないだろうか。
・生活レベルや役割分担のような使い手側の努力だけではなく、そもそもの家電を使う人の主ペルソナを考え直すのはどうだろうか。今の家電開発も、共働きを対象にしているといっても、ここまで家と企業との仕事で二重労働になっているということを真剣に捉えていただろうか?女性がフルタイムで働き、家庭に人がいることを前提としないのならば、例えば洗濯機は、外でも操作したり洗濯物の状態を知れる機能を充実させるべきでないだろうか。洗濯の動作自体は取り出しのステップが負担なのだから、帰宅が遅れ、取り出しが遅れるならすすぎを延長する機能を設けたり、柔軟にできないだろうか。また、主で洗濯を担当しておらず、洗濯について予備知識のない人が行う場合でも、間違いなく洗濯できるように、より一層のわかりやすさを提供できないだろうか(例えば洗濯表示別の洗い方を洗濯機の方で判断するなど)。あるいは複数人で簡単に洗濯の状況が共有できるようにならないだろうか。また、家事だけではなく育児についても、Femtechの流れがあるが、夫婦両方あるいはベビーシッターや親族など助け手も含めた情報共有を促進するなど、既存の家事モデルから脱却した新しい仕組みづくりに期待したい。
・ 家事の共同化の試みは失敗し、食事や洗濯物が自宅に届けられることはなかったと本書にはあるが、シェアリングエコノミーの流れは、再度この流れをなぞっているように見える。ランドリーの宅配サービスや家事ヘルプ、食材セットや半調理品の宅配サービスが、共働きの生活スタイルを受けて出てきている。シェアリングエコノミーでは、テクノロジーの力で柔軟性の担保と個別化を行えるようになったために、プライバシーと自治の問題を解決して家事の共同化を実現するのかもしれない。
こう考えると、デザインの前提に、新しい暮らし方をしている人の姿を置くことによって、デザインは新しい生活の姿を、一般に広める手助けができるのかもしれない。そのためには、ペルソナやシナリオで主要で取り上げる姿や、自分達が提供しようとしているサービスがどのような家庭像、生活像に繋がるのかに、より自覚的であるべきだ。漫然と現状ベースで選んでいたら、現状の不満を改善する形にしかならないだろう。未来を変えるには、今はないものへのリアリティのある想像力を持つことからなのだろう。