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歌を読む---BEGIN 「その時生まれたもの」二番  (ホントはおもしろい現代文・番外編)

☆BEGIN 「その時生まれたもの」二番をお聞きになってから、本稿をお読みください☆

人は、希望がなくては生きていけない。明日はきっと幸せが待っている。今は苦しいけれど、明日はきっといいことがある。そう思わなければ生きていけない。明日も苦しい。明後日も、その次も…未来が苦しみだけだとしたら、人は絶望に陥る。明日への希望なくして、人は生きていけない。

だが、その未来とは、推測を含んだ架空のものであり、あるかないか未だはっきりしない曖昧なものである。それに対して、苦しみに満ちたその過去は、しかし確かな過去であり、「私」の過去である。たとえ、苦しみや悲しみに満ちていようとも、「私」にとって確かな経験であり、確かな事実である。

苦しみが「確かな事実」であるとは、つらいばかりのようだが、それが別れの苦しみであるとしたら、どうだろう。

生別、死別にかかわらず、別れはつらいものである。だが、なぜつらいのかと言えば、そこに愛があったからだと言える。愛がなければ、悲しみは生まれない。愛がなければ、その別れも苦しみとはならない。過ぎ去った日々の苦しみや悲しみには、それと同じくらい大きな愛があったはずである。だとしたら、その苦しみや悲しみの大きさは、そこにあった愛の大きさを示している。
そして、その愛が生まれたところには、愛する者がいたはずである。

過ぎ去った悲しみの日々には、その大きな悲しみとともに大きな愛があり、愛する者がいた。老いて逝った父や母、若くして亡くなった友人、別れた恋人、病気で逝った愛猫…それは確かなものとして、今も「私」の中にある。いや、「ある」だけではなく、今の「私」をつくっている。「私」の一部であり、全てであり、土台である。そして、そこには、愛する者とともに精一杯生きた「私」がいた。
だから、その苦しみは、悲しみに満ちた過去は、この上なく「愛おしい」。

愛する者との出会いは一生に一度である。だが、この「一生に一度」とは、「めったにない」「有り難い」という意味だけではない。「一度である」とは「二度三度は無い」、つまり、「必ず別れを伴う」という意味を含んでいる。時間の長さは問題ではない。50年であろうが、1日であろうが、愛する者との出会いは一度きりであり、必ず別れを伴う。
何十年も一緒に住んでいる家族であっても、永遠ではない。ときには、出会ってすぐに別れることもある。結婚後すぐにパートナーを失ったり、出産してすぐに子を失ったり。無事に育ったと思っても、事故によって失うこともある。血のつながりという深い絆があっても、いつ別れが来るかわからない。先に逝く者、後に残る者、それぞれの悲しみや苦しみがそこにある。

その悲しみを知る時、他者に対するいたわりの気持ちが生まれる。他者の心は正確にはわかり得ない。それは大森荘蔵が言うように、「自分に擬して」想像するばかりであって、当然ながらそれは真の理解ではない。だが、逆に自分に擬して推測するその心は、大きく広がる可能性を持っている。愛犬や愛猫に自分の心を映し出して、「きっと今、嬉しいに違いない」「きっと今、淋しいと感じている」というように理解することができる。さらには無生物や鉱物、あるいはそれらでできた何らかのものに対してまで、その心を推し測ることができる。真実がどうであるか、実際にそれらに心があるかどうか、それはここでは問題ではない。人は、自分の苦しみをもとにして他者の苦しみを推しはかり、その心を「理解」する。100%ではあり得ないが、想像し、推測し、その苦しみや悲しみに共感して、その人をその苦しみから救いたい、その心を慰めたいと思う。

自己の苦しみをもとにした、他者へのいたわり。そうした気持ちを抱いた時、それが人間すべての避けられない「さだめ」であるということを知る。古語に「さらぬ別れ」という言葉がある。これは「避けられない別れ」という意味であり、「死別」を意味する。自分の悲しみや他者の苦しみが、避けることのできないものであるならば、「それが人というものである」「それが人の運命である」という理解が生まれてくるだろう。それは、どこからか聞こえてくるかのように、自分の中に生じるものである。たとえば天の声として、たとえば故人の声として。

そして、そこには嘆きが生まれる。その悲しみや苦しみだけでなく、もっと広い視野の中で、人間の一生や人生に対する、運命に対する感嘆が生まれてくる。これは本居宣長が源氏物語に対しておこなった理解「物のあわれ」に通じるものである。

この嘆きは、そのままでは一過性のものとして消えていくが、ひとつの形をもったとき、思いを発し、伝えて、共感することのできるもの、すなわち、「歌」となる。だが、それだけでは真の「歌」とは、なり得ない。なぜか。

中島敦「山月記」に、虎となった李徴が、偶然出会った友人袁傪に、わずかに記憶に残る自分の詩の伝録を依頼する場面がある。その時、袁傪は、李徴の漢詩が興趣・技巧ともに非常に優れたものであると認めつつも、後世に残る名詩となるには何かが足りない、と感じる。
小説からは、その考えるところのすべてを知ることはできないが、最後に李徴の詠んだ即興の詩、および李徴の性格や人生から推しはかるに、その「足りないもの」というのは「利他」、他者へのいたわりではないかと思われる。自分と同じ苦しみや悲しみを持つ他者をいたわるためにこの詩を伝えたい、そういった心が不足しているのではないか。自己の思いだけならば、それは自分の慰めにしかならない。そこに、他者は独善を見て、共感できないことが多いのではないか。

他者の思いは歌というひとつの形式を取ることによって、共感しやすい形となる。だが、そこに歌われた心情が独善的であっては、共感を得ることはできない。
「あなたに届けたい」「私と同じ苦しみ、悲しみを持つあなたにこの歌を届け、その心を癒したい、慰めたい」。そういう利他の心が根底にある時、歌は成熟し、真の「歌」となる。
その時、「歌」が生まれるのである。

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