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書くこと、あるいは文調について

文章を書くことはいつだって難しい。
頭の中にはいつだって言葉が無限連鎖のように渦巻いている。
だからいつも自分は何かしらを書くことができると、正確には書き留めることができると、そう予感しているのだ。
この予感は相当やっかいで、あるときは自分を書く方へと突き動かすと思いきや、
またあるときにはひどく自分をみじめにしてしまい、
ついには何を書くにしても、どうせ一塊の陳腐な想起を垂れ流すこと以上の代物ではないと、そう予感させもする。

文章を書くことはめんどくさい。
そうだ、実は何かを書き留めたりすることはめんどくさいのだ。
自分は人一倍疲れやすいし、めんどくさいことは嫌いである。
だから自分は言葉自体に突き動かされているのではなく、もっぱら感情をベースに行動をしたり、あるいはしなかったりを決定していることになる。
ようするに怠惰なのだ。怠惰な自分はいつも文章を書く予感に満ち溢れている。

だがそもそも自分は、書くことに関してなぜそのような予感を抱いているのか。
まるで書くことが自分の性であるかのような、書くこと以外の何かはあり得ないといった宿命の予感、書くための器官(Organs)。
これを欲望とは言わずしてなんと呼ぼうか。書くことの欲望、書かれる言葉に対する欲望、文章化することのオルガズム(生命・器官・悦楽)。

高校生の時に、さる読書感想文である造語を用いたことがある。
それは「文調」という言葉であった。そもそも自分は、これが歴とした言葉であると思っていたのだから、もし造語罪に問われているとすれば、「文調」を用いた罰は、過失につき執行猶予2年の仮釈放であろうか。
当時の国語科の教員は、すぐにこの単語に訂正を入れ、もしや「文体」ではないか?と見当違いの赤を宣告した。
現状の国語教育とはほとんど兵役のようなもので、
道徳的であればあるほどその読みは正しいということになる。だから文章ではなく、空気を読まなくてはならない。
言葉の使い方に関しても、辞書という法典に記載がなければ、その言葉は存在しないということになり、したがって辞書にない「文調」は書き言葉の次元ではその存在を認められることはない。
話し言葉においてさえ、「ぶんちょう」はあらゆる誤解をともなって理解されるだろう。
たとえば「文鳥」、あるいは「文長」、いずれも辞書に載っているが、普段の会話ではほとんど耳にしない。けれども辞書に載っているから存在はする。
なんて傲慢なのだろうか。「文調」はたしかに存在するのだ、だが、それは今はまだ発見されていない未開拓の感性領域の表現として存在しているということなのだ。
だいたい自分は「文調」という語を理解しない人間とは仲良くなれない気がしている。
「文調」とは文章がもつ色彩であり、音色であり、もっというと声音であり、テクスチュア(Texture)であり、それに対して、明確なフォーム・形をともなった「文体」とは峻別されなくてはならない。これを理解できるか否かでその人の言語センスのあるなしが測れる、とまでは言わないものの、少なくともこれを読むことによって「文調」の存在は認めなくてはならくなったはずだ。
もしも辞書の役割が、言葉に定義を、すなわち意味を与えることなのだとすれば、自分がその役割を担うことの何が誤りなのであろうか。
当時の自分は悔しくてたまらなかったから、必死で辞書やGoogleで「文調」の痕跡を探し(Find)た。しかし、当然そのような言葉は見つか(Found)らなかった。
面白いことに、今Googleで「文調」と検索すると何件かページがでてきて、中にはこの語を定義してるものまである。いつのまにか「文調」は発見(Found)され、わずかではあるものの、承認された語として設立(Founded)されていたのである。
とはいえ、ひとまずのところ世間一般の承認はどうだっていい。
ここから、この「文調」の屈辱から、自分は何を考えなくてはならないのだろう。

ここまできて、自分の今書いている文章は、当初予感していたものと随分違った様相をしていることに気がつく。文章は意外と言うことを聞かない、当然だ、言うことではなく書くことなのであるから…

それはさておき、当時の自分は愚かで一般的な教師の教え(Doctrine)と辞書という、ひどく教条的(Dogmatic)で権威的(Dogmatic)な聖典に屈してしまったのである。授業は平日に行われるミサであり、教室(Class)にいくのは先生と生徒の階級関係(Class)を再認識させる儀式的行為のためなのである。

いささか言葉遊びがすぎた。
だが、教室の教えに救い(Saving)はあったのだろうか。
それともそれは単に教えの現状維持(Saving)にすぎないのだろうか。

ただ一つ言えるのは、自分自身は自分で救わなくてはならないということである。

まだ見ぬ言葉に名を与えることは自分の仕事である。

名もなき予感に名を与える(Donner)のは他ならぬ自分である。
それは辛うじて呼吸をする微かな息吹きに救いの臓器(Organ)を移植する言葉の提供者(Donner)なのである。

だから書くことは未来を生きることなのである。明日の鼓動を聞くために、予感は言葉へと翻訳されなくてはならない。書くことは救う(Salvage)ことである。

自分はこれを自己救済(Salvation)と呼ぶ。
私が書き、僕が読むことによって、俺が救われる。

そうして自分を救った言葉が、どこかでまた誰かを救うことがあるような、そんなエゴをベースにしたエコシステムを考えている。

だからこのnoteはエゴシステムであり、自分は自分のために書く。
しかし、この「自分」は別に自分でなくたっていい。

いきなりよく分からないものを書いてしまったので、
ポリシーめいたものをここに記すことで、この文章に記念碑的な意味を与えることにする。

ポリシー

・さぼらない。
  (1週間〜1ヶ月に一回は何かしらを書く)

・ちゃんと読めるものを書く(書くことの練習もかねて)

・自分のために書く

もうすこしポップに書くつもりだった。
文調は文体以上に拭えない個人の印なのだろう。
ちゃんと格好よく写っているだろうか。ああ世間体。

去るページにサルベージを。
文章を書くことはいつだって救いなのである。

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