教えれば教えるほど、学ぶ力は奪われる。
教えれば、教えるほど、学ぶ力が奪われるという話はよくあるものです。
しかし、それでも親や教師は子どもにああしろこうしろと「教育」してしまう。
先日、母の知人が子どもの成績や進路について様々なリサーチをして、子どもに提案しているという話を聞きました。
母は「そういうことをすればするほど、本人のためにはならないのにね。」と言っており、その通りだなと私も思いました。
教育すればするほど、自らの意思で人生を決めていくことや学び取っていくことはできなくなる。
ここでもまたイリッチの言葉を引用したいと思います。
学校は、人々の成長し学習しようとする自然な傾向を、教授されることに対する需要に転換するのである。他人によって成長させてもらおうとすることは、製造された商品を求めることよりももっとよけいに自発的活動の意欲を放棄させる。(中略)学校は人々に自らの力で成長することに対する責任を放棄させることによって、多くの人々に一種の精神的自殺をさせるのである。
(イヴァン・イリッチ『脱学校の社会』1970, p.116)
人が学びたいと思うことは自然なこと。しかし、学校はそれを「教授して欲しい」という需要なのだと勘違いし、人々の自発的活動による成長への意欲を放棄させると言っています。
これは先述した例のようなことだと思います。
学校は教えることによって、むしろ自ら学ぶ力を放棄させており、それは「精神的な自殺である」とまで言っています。
かなり面白い指摘だと思います。