所属(学校・会社)の哲学〜独学する難しさ〜
私たちは、自分や他者が何者なのかを確認する時、「所属」を知りたがる。よく考えてみれば、これはいったいなぜなのだろうか。なぜ私たちは自己紹介の時にわざわざ所属大学名を言うのだろうか。専攻を紹介するならまだしも、学校名を紹介して何になるのか。あるいは、(学ぶことは学校でなくても当然できるのだから)学校に通っているかどうかすらも本来ならばどうでも良い情報なのに、会話は学習者が学校に通っていることを前提に話が進むか、学校に通っていないことを知ると不思議に思われるのである。
現在では、確かにほとんどの人間が何かに所属して生きている。特に若い者は学校と呼ばれる施設であろうし、経済的に自立すると所属は会社へと移り変わっていく。ただ、経済社会人は必ずしも会社に所属しているわけではなく、いわゆる自営業や個人事業主、フリーランスなど様々な言い方があるが、自分の力でやっていくことのイメージがしやすい。
しかしこれがこと学習や研究になると、所属がないということは致命的になる。何せ、社会的評価があまりにも低い上に、どれだけ熱心に学習と研究をしていようと全く信頼されないからである。信頼されるには、学会誌に論文を投稿したり、書籍を出して「業績」を世間に突きつけるしかない。一方で、所属がある者は、教育機関に所属しているというだけで意味のある学習と研究をしていると思われる。これは現代社会の実に奇妙で当たり前の現象である。
所属と独学
学習をする上でどこかの教育機関に所属しているだろうと考えるのは非常に近代的である。そもそも誰もが学校に通うことができるようになったのがここ最近の話であるし、それ以前では学ぶとはもっぱら独学することであった。しかし、今日では学習すること=学校で教えてもらうことという発想に完全に置き換わり、学校に所属しないで学習したり、研究したりする者のことを信頼しなくなっている。
独学と通信制高校、通信制大学
所属というものの根強さを感じたのは、通信制大学に通って学ぶことを「独学」と表現するメディアが登場した時である。その代表的な存在が東京大学大学院経済学研究科教授 柳川範之である。彼は通信制大学で学んで大学教員になったことを「独学」と言っている。これも非常に近代的な発想である。通信であれ、通学であれ、そもそも大学という教育機関に所属して学んでいるのだから、進学率が極めて低かった時代の価値観ではこれは独学ではない。
通信制の学校というのは、この「所属」を考える上で非常に興味深い対象である。なぜなら、実際には学校で提示された学習よりも独力で学んでいることの方が圧倒的に多く、実態として学校の枠組みに入っている必要性はかなり薄いにもかかわらず、高卒・大卒の肩書きを得るためだけ(あるいは周囲を安心させ、理解を得るためだけ)に所属を確保する手段となっているからである。
堀江貴文がゼロ高等学院という通信制高校サポート校を設置した理由として「簡単に高卒の肩書きだけ取ってあとは自由に学べば良い」と語っていたことが非常に象徴的であった。確かに、通信制高校に通っていれば、高卒の資格は取れるし、高校に通っているという社会的な認識もありつつ、自由な時間もたっぷり取れるから現実的な方法であるのかもしれない。しかし、ここにはやはり高校に「所属」していないければ普通ではないという価値観の壁がある。また、最低でも高卒の資格がなければ生きていけないだろうという格差の前提が埋め込まれている。現代社会において、学校という所属なしに、かつ会社にも勤めることなく学習するというのは本当に難しい。
独学によって有名になった研究者も「会社」には所属していた
学校に通っておらず、企業にも勤めていない若者とくれば、それはもう現代の言葉で表すとニートやフリーターになってしまう。いくら素晴らしい独学していたとしても、それでも他者からはニートに見えるだろう。
著書『子供の誕生』で有名なフィリップ・アリエスは、自らのことを日曜歴史家と呼び、研究活動をしつつもいつもは熱帯地域の農業調査をする仕事をしていた。おそらく、ほぼすべての独学研究者は、学習こそ独力であるが、同時に経済社会において企業などの何らかの所属を持っていた。これは学校制度が整う以前でも、独学をする者は経済活動のかたわら学習をしていただろうと思う。つまり、生活において学習"のみ"に集中するには、「子供」として家族に扶養されるか、学校に「所属」する他なかったのだろう。
独学には労働が不可欠なのかもしれない
ただし、生活の中で学習しかしていないこともまた歴史的にみれば奇妙なことなのかもしれない。中世より以前は7歳になれば「大人」として見られており、労働もすれば、罰則も厳しく、性的な行為も全く制限されていなかったことを歴史家アリエスは『子供の誕生』で指摘している。つまり、子供とは新しい概念であり、新しい考え方なのだ。したがって、働くことは大人の人間として生きる上で当然することであり、むしろ今の中高生、大学生のように労働から切り離されて学校に隔離されている状態の方が不自然な状態である。
学習だけする人々のために「所属」としての「学校」がある?
アリエスの指摘をそのまま受け取れば、人生において学習だけをする期間というのは、本来「赤ちゃん」の時しかなかったはずである。7歳以上になり「大人」として労働を始めれば、経済社会の中での所属のようなものが手に入る。その上でより学びたい者は独学し、そうでない者はより働いたり、自由に時間を過ごしたことだろう。ただ、近代になり学校制度が登場することで初めて、人生において学習だけをしている期間が生まれたのだろう。私たちが学校制度に頼らず、独学をできるようになるには、残念ながら働くことで一人前と認められることが条件になってしまうのかもしれない。
いずれにしても、このnoteの結論は「労働せず、学習"だけ"する人」というのは学校制度が作り出した比較的新たな人々なのではないかという仮説が立ちました、ということにしておこう。
おまけ(妄想):所属からの解放
冒頭の問いに戻れば、私たちがなぜ所属を気にするのかを考えた時、やはり「この人は何している人なの?」という疑問を持つことが多いからだろうと思う。その簡単な解決策として、私たちは所属を紹介することを無意識的にやっている。ただ、これは結局「生産性」や「能力」によって社会の中で「何かをしている」ことを前提にして話が進んでいる。したがって、所属を持たず、「何もしていない人」を排除、差別するシステムである。これによって社会的に排除されているのが障害者であろう。経済的自立を一人前の大人の条件とするならば、障害者と呼ばれる人々は大人ではないことになる。
だからこそ、「所属」の概念から私たちが解放されるには、「何もしないで生きていく」ことが許容される社会にならないければいけない。そんなのは無理だと思うかもしれないが、例えばAIやロボットが代わりに「労働」をしてくれてその利益を人間が享受することができるようになれば、おそらくベーシックインカムによって労働が生きていくことの最低条件になることはないだろう。所属からの解放とは、つまり労働からの解放であり、生産性からの解放であろう。
労働からの解放は、学校からの解放でもある。
義務教育制度を運営するにあたり、社会で生きていくための最低限の素養を身につけるだとか、協調性を身に着けるといった"建前"が用意されている。これによって、労働者になれば人々は週5フルタイムで働かなければならないのだから、学校に週5で隔離されることを皆変なことだとは思わない。しかし、ベーシックインカムやその他何らかの方法によって人々が労働から解放されれば、想像的な仕事だけを自由な時間に好きなだけできる世界が来るかもしれない。この世界線において、学校に週5で通う正当性は全くない。労働からの解放は、学校からの解放でもあるように思っている。