ゆとり世代は「学力」が高いー脱・脱ゆとり教育ー
学力、なんてものはいかようにも定義し得る。一般にこの学力という言葉は、測定学力の意味で使われる(測定という行為そのものが主観的なものであるから、全ての能力・学力は数値化できてしまうのだが)。しかし、測定する対象には一般的になっていない非認知能力とやら、新しい学力とやらも同じく「学力」であると言われるようにもなっている。ならば、その「新しい学力観」を利用させていただき、ここではゆとり世代の名誉挽回をしたいと思う。何せ、1999年生まれの私も小学生の頃はゆとり教育を受けた最後の世代と言って良い。
学力とやらを、ここでは人権意識の高さと定義、宣言してみよう。そうなるとゆとり世代は圧倒的な学力を有している存在に成り代わる。ゆとり世代は、プライベートを重視し、会社の同調圧力に屈することなく有給を消化する。報酬にも貪欲であり、飲み会やサービス残業という「搾取」にも批判的である。これは明らかにこれまでの世代とは異なる労働基本権の強い、人権感覚の強い状態であり、ここにおける学力の定義に当てはめれば、ぶっちぎりの高学力を有していることになる。
逆に学校教育によって隷従を強いられてきた人々は、その名残か残業にはかなり熱心なようである。これを低学力と呼ばずになんと呼ぶのか。学力なんて概念はあまりにも脆い。大した価値もない概念である。私の論理は間違っていないはずである。定義次第では、ゆとり世代は誰よりも学力が高い。ゆとり教育以外の学校教育では、教えることによってむしろ人権感覚を奪っているとも言えるのである。
脱・「脱ゆとり教育」の発想
脱ゆとり教育を重視する立場とは、換言すれば測定学力低下への敏感な危機意識である。実際に、脱ゆとり教育が叫ばれるようになったのは、PISA学力の順位低下が最も大きな理由であった(本当の理由は、単純に参加国が増加したことだと指摘されている)。私はインクルーシブ教育を実現するために、測定学力の低下は免れることができないと思う。そして、一般に障害者と共に学ぶことに対する批判として「クラス全体の学力が下がる」とか「授業のスピードが落ちる」ことが指摘される。しかし、これは測定学力を重視するあまり、人権意識を完全に無視している。つまり、測定学力向上のためであれば、障害者をクラスから排除してよいというメッセージがここに含まれており、これは差別を教えることと全く同じなのである。測定学力の向上を図ると同時に、差別を教え込むことが平然と許されている。特別支援学校、特別支援学級、適応支援学級。これらの「特別な学校・学級・カリキュラム」は、個別に合った支援などと呼ぶことがあるが、これらは全て国際基準に照らせばセパレーション(分離)教育に当てはまる。間違ってもこの支援をインクルーシブと呼んではならない。
差別のない教室をつくるには、測定学力の放棄が不可欠である。それは、脱ゆとり教育から抜け出す、つまり脱・脱ゆとり教育の発想が重要であることを示す。数年前、「ゆとりですがなにか」というドラマが人気となった。解釈はいろいろであろうが、脱ゆとり教育によって学習障害のある生徒がクラスから出ていかなければならないというシーンがある。そして、教員は「真のゆとり教育であれば、彼はクラスに残れる」という趣旨の発言をするのである。
週休2日制、総合学習の時間、絶対評価の導入などは、他ならぬゆとり教育の成果であった。これらは今日においても、価値あるものとして残り続けている。もちろん、脱学校論者、イリッチ主義者としてはかなり課題もあるが、ゆとり教育を肯定するか、否定するかと問われれば、私は必ず肯定し、評価する。障害者や外国籍の生徒を受け入れるには、教室に「ゆとり」がなければ不可能である。そして、繰り返すがこの包括的で差別のないインクルーシブな教育を実現しようとすれば、必ず測定学力は下がる。これは避けられない。しかし、障害があることによってクラスを分けるという国際的には異常な差別的取り扱いをやめ、それによって生徒に差別を無意識的に教え込むことはなくなる。私たちは、測定学力低下に敏感な危機意識を捨て去らなければならない。
それが「脱・脱ゆとり教育」である。