コミュニケーションに伴う虚無感について

(コミュニケーションという言葉は便利すぎて好きではないが、なかなか日本語にするのが難しいので仕方なく使う。)
 
人間は分かり合えない生き物である

 これは誰にでも納得のできることであると思う(全ての生き物に当てはまるかもしれないが)。
 聖書ではバベルの塔に怒った神が天罰を下して言語を分けてしまったために、意思疎通が不自由になってしまったとされているが、言語が同じであったとしても、長年連れ添った夫婦であったとしても人間は絶対お互いのことを理解できない。

 相手を理解する唯一の方法はコミュニケーションをとることである。相手と言語による会話や身体的言語(身振りなど)を通じて自分ことを開示し、相手のことを理解していくしかない。
 しかし、自分が思っていることを言語は正確に伝えてはくれない。
 「真っ赤なトマトを食べたらとても美味しかった」という話をしても、その赤がどれほど赤かったかは相手と自分で共通にはならないし(写真を見せれば伝わる?)、どの程度美味しかったかは更に伝えることが難しい。
 さらに言葉というカタチにしてしまうことで、脳内のふわっとした感覚的なものごとが「固定化」されてしまう。いくら語彙量があったとしても正確に表現することはできない。

 だからといって、人間は欲が深い生き物なので「自分を理解して欲しい」という気持ちを捨てることができない。世界中で起きている争いごとの大半は理解されなかった(してほしかったのに)ことが原因で起きているし、恋愛や離婚、友人との不仲などもそれが問題であることは想像に難くない。

 人間はわかり合えないことを知っているにも関わらず、わかり合おうとする虚無的な性格を持っている。
 悲しく虚しい。

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