一匹と九十九匹とLGBTと①
追記:本題まで書くつもりだったのですが、福田恒存の「一匹と九十九匹と」の解説のみになってしまったので知っている方は飛ばして②を読んでください。
今回のタイトルになっている「一匹と九十九匹と」というのは、聖書のうちの「ルカによる福音書」にある話だ。
現代語っぽく訳してみる。
あなた方のうち誰かが羊を100匹飼っていたとする。そのうち1匹がいなくなったら、残りの99匹を野原に置いたままでも、いなくなった1匹を見つけるまで探しまわらないことがあるだろうか(いや、ない)。(ルカ伝15章)
羊は、よく「迷える子羊」などというように信徒の比喩であり、いなくなることはキリスト教の道から外れてしまうことを指している。
普通の感覚で言えば不合理だ。
99匹を野原に置き去りにしたら、狼に襲われるかもしれないし、群れからふらふら出て行ってしまうかもしれない。もしいなくなった1匹を見つけて戻っても残りの羊が2匹以上減っていたら単純に損だ。
しかしイエスは、間違った道に進んでしまった1匹をまず救うこと、これこそがキリスト教の教えだという。
批評家の福田恒存はこのイエスの教えに政治と文学の違いを見た。
野に置かれたままの羊たちを救う(導く?)のは政治の役割であり、
いなくなった1匹を救うのは文学(芸術全般)の役割であるという。
そしてその役割を超えようとするのは悪しき政治であるという。
福田恒存は(おそらくイエスも)政治がいらないと言っているのではなく、99匹もの羊を救える政治の重要性を認めている。
宗教や文学なんかでは私の空腹は満たされない。橋も掛けられないし、服も買えない。物的なものに対して文学、宗教はほぼ無意味だ。そこには政治の介入が重要で、政治が経済政策や外交などを行ってくれるおかげで一部の地域のような無政府状態にならず、安心して生活できている。
が、それと同じくらいに社会に馴染めなかったり、他の人とは違う個性を持っている"普通"出ない人だったり、
寂しい気持ち、やるせない気持ちを持つ人の心を救うことができる文学(芸術)は重要であるということを再発見した。(これはそもそも「芸術とは何か」ということについて書かれたエッセイ)
長くなってしまったので今回は本の解説のみにして、現代のことについてはこの後に各記事で述べることにする。
何度読んでも深い文章だ……