名は体を表すのか
名は体を表す
とはよく言ったものだが、名前(固有名詞)についての議論を最近勉強したので書いてみたいと思う。
名前についての議論は古くからあって、古代ギリシャの大哲学者のプラトンが『クラテュロス』という本ですでに問題にしている。
そこでは名前は自然発生的(必然的)についたものである(正しい名前がある)、それとも人為的(偶然的)なものか、という議論がなされている。
ヘルモゲネス(人為・偶然派)という青年とクラテュロス・ソクラテス(自然・必然派)が議論しているのだが、クラテュロスはヘルモゲネスに対し、
「ヘルモゲネス(ヘルメス神の子孫の意味)という名前なのに貧乏(=神の寵愛がない)なんて間違った名前をつけている」というような半分冗談を言っている。高木という名前なのに背が低いから低木に改名しろ!って小学生男子みたいなことを言っているわけですね。
詳しい議論は本を読んでもらうとして、『クラテュロス』では結局どちらが正しいかは明らかにならない(いつもの展開)。ただプラトンからすればその名前が真実かどうかはイデア界でなければわからない、ということを言いたかったのかもしれないという解説を読んで少し納得した。
この議論は現在まで続いていて、幾つか非常に興味深い論もでている。
J.S.ミル
ヘルモゲネス派(と言っていいと思う)の議論を継いだのが功利主義でも知られる19世紀のイングランドの哲学者JSミルだ。
ミルは「河口町って名前だからと言って河口にある必要はないよね?(昔は河口にあったかもしれないが、河が干上がったりした後もその町は河口町と呼ばれ続けるだろう)」みたいなことを言って、
名前とその名前によって指示されている対象はたまたま結ばれているのであって、他の意味は持たない、ヘルモゲネスという名前はただヘルモゲネスという特定人物を表すだけで、裕福だとかの意味は持たないということを言った。
確かに一理あって、○美という名前だからと言って美人であるとは限らない(ある必要はない)し、◯太という名前だからといってみんなが健康ってわけではないし、痩せているひともいるだろう。
ゴッドロープ・フレーゲ
この意見に対し反論を出したのが19世紀から20世紀にかけて活躍したドイツの哲学者フレーゲだ。
フレーゲは宵の明星(ヘスペラス)と明けの明星(フォスフォラス)を例にとってこんなことを言っている。
今の人はご存知の通り、
宵の明星=明けの明星=金星 であるが
a.宵の明星は宵の明星である
b.宵の明星は明けの明星である
という2つの文章を比べると、aの文章とbの文章はどちらも「A=A」ということを言っている(トートロジー)はずなのに、明らかに文章の質(情報量)がちがう。これをフレーゲは
sinn=意義=明け方に見える星、夕方に見える星
bedeutung=意味=金星
という2つにわけ、言葉はその両側面を持っているから、文章の質が違ってくるとした。
ソール・クリプキ
それに対して反論をしたのがクリプキだ。
わかりやすいかわからないが例を出してみる。
あなたの隣人(Aさん)が凶悪な連続殺人事件の犯人だったとしよう。
しかし、その事実を知らないあなたが
a.Aさんは善い人だ
b.連続殺人事件の犯人は善い人ではない
という2つの考えを合わせもっていたとしても何ら矛盾はおきない。
事実として、 Aさん=凶悪犯 かもしれないが
あなたの中では(犯行が判明するまでは当事者以外の全ての人間の中でも) Aさん≠凶悪犯 ではないからだ。
またクリプキはAさんが殺人事件を起こさなかった可能性の世界について考える。
a.Aさん=Aさん
b.Aさん=凶悪犯
aの式はどの可能世界でも成り立つ(常に真)のに対し、bの式はAさんが殺人事件を起こさなかった世界では成り立たない(この世界ではたまたま成り立っているだけ)とし、
「Aさん」という名前が意味することは「Aさん」という人間をただ指す語であり、その語のうちに「凶悪犯である」や「私の隣人である」と言った要素は含まれないと考えた。
以上が私が知っている名前の意味についての議論の変遷だ。
いまだに結論は出ていないらしく、多くの議論がされているらしい。
この先どうなるのかとても楽しみなテーマの一つだ。