一匹と九十九匹とLGBTと②
前回のおさらい:政治と文学の役割について、政治は社会の大多数(物的なもの)を、文学ははみ出しもの(心的なもの)をそれぞれ救う役割がある。
そもそもこの記事を書こうと思ったきっかけは中島岳志という政治学者の興味深い対談記事を見つけたからだった。
ここで今回の主題に戻るが、一匹というのは世間に溶け込めない、どこか疎外感を感じるというはみ出した個のことである。
その典型であったのが、今でいうLGBTの人々だった。異性を愛することができない"異常"な人々は(特に近現代では)世間からは白い目で見られていたし、法的制裁がある場合もあり、九十九匹として政治が救う側ではなかった。
しかしここ十数年ほど、世界的にLGBTの人々を"普通"として扱おうという気運が高まっており、いわゆる先進国では、スポーツ界など問題はあれどすでにいろいろな権利が認められているようだ。
しかし、もし、福田(中島さん)が言うように一匹を政治が救おうとしてファシズム的になってしまうのであれば、やはりLGBTは救うべきではないのか。
例えば、近代の女性は一匹であったといえる。参政権はなく、家にいて子どもの世話をすることが仕事であり、仕事に出たり、夫に口答えすることは許されない。
またアメリカにおける黒人やインディアンなども一匹であった。同じバスに乗ることを許されず、奴隷として扱われていた。
彼らは政治が救う対象ではなかったのか。
(黒人、インディアンは心の問題ではなく物的な問題なのであまり適さない例かもしれない)
きっと一匹と九十九匹はその場その場で変化し、絶対的な対立ではないのだろう。また、誰しも1つの要素だけの人間であることはなく複数の要素からできている。日本人という要素があり、男であったり女であったりLGBTだったりの要素を持っていて、民族的には……というような具合にだ。
ではそのうち一匹と九十九匹の対立(役割分担)はなくなるのだろうか。LGBTが救われ、例えば小児性愛が救われ、例えば近親相姦が救われ……となったら全て政治が救う対象になるのだろうか。文学の役目はなくなるのだろうか。
そこの境界線を福田がはっきり引いたはずだったのに、今では政治が(民主主義においては国民が)その線を飛び越えようとしている。さらにいえば、文学者たちも(メディアで見る分には)政治側に一匹を救うよう呼びかけている。
もし福田恒存が正しければ、悪しき政治が始まるのはきっともう少しだ。