思考を形にすることについて
なぜいまこうして文章を書いているのか、ふと考えている。
小さい頃はサッカー選手になろうとする夢が破れたあと、芸術家や漫画家や小説家に憧れたこともあった。
私にとってその人たちは特別であり、
自分が知っている人間<自分のことを知っている人間
という人間に憧れていた。
しかし全ての人が特別な人になることはできず、例に漏れず私もしがない生活を送っている。
いま私は文章を書いている。小説家になりたいわけでも、コラムニストになりたいわけでもないのに。なぜ書いているかと自問自答してみるとひとつ答えが浮かんできた。
文章はとてつもなく大きな力を持っている。
「ペンは剣よりも強し」とはよく知られた格言だが、まさにその通りだと思う。
キリスト教の開祖(厳密には違うと思うが)であるイエスは、彼を邪魔に思う権力者によって殺されてしまった。しかし彼が伝えた言葉や教えは育てた弟子たちによって広められ、今までにとてつもない数の信徒を獲得している。
さらに哲学や宗教学に限らず、数学、法学、科学、化学、文学、芸術学などほぼ全てと言っていい学問にも影響を及ぼしており、現在に生きるほぼ全ての人間は多かれ少なかれキリスト教を知っているし、その影響を受けている。
ソクラテスは彼を疎んじていた人々によって死刑に処せられたが、彼を死刑にしたアニュトスやメレトスと言ったソフィストよりもソクラテスは知られているし、2500年経った今でもソクラテスが命をかけて発した言葉は私を含め多くの人に届いている。
少し話は変わるが、私は大学生のころ子どもがいらないと思っていた。交際している人もいたが、子どもを作ることには否定的であった。
子どもを作ると言うのはどういうことか、と考える。
以前は反出生主義の立場だったので、子どもは産まれてきたくて産まれるわけではないし、産まれてもこの世は苦しいことだらけのため、子どもを作ることは動物的な愚かな思考と行為の結果であり、自分勝手だと思っていた。
今も思っていないわけではないが昔は子どもの年齢だったのが親の年齢に近づいていくにつれて少し変わってきた。
人は成長するまでに多くの人と関わる。良いことも悪いことも含めて数え切れない人から覚え切れないことを教わる。それをどうにかして後世に伝えなければ勿体無い、伝えることが自分の使命である、という思考に少しずつ変わってきた。
船は乗っているものを次の目的地まで運ぶ。いつか沈没はするが、次の目的地に着くまでは進み続けなければならない。
過去と未来の橋渡しをしなければいけない、自分に関わってくれた人の知恵や思想や歴史を自分の中で沈没させるわけにはいかない。
という考えに変わってきた。しかし子を成せるかどうかは人によるし、パートナーによるし、なかなか独りよがりでできるものではない。
そこでソクラテスにあやかって文章を書くことで、こんなものを2500年後の人が読むわけはないと思いつつも、自分に渡されたものをどうにか次に渡そうとしているのだ。
確率としてはほぼ0だが、後世に残る可能性は0ではない。その少しに望みを託して文章を書こうと決めたんだな、と考えた。