「普通」との距離感、制作について、あちらとこちら
「普通の人」との距離感、関係性の結び方に苦労する
「普通の人」なんていないはずだけど
彼らと自分のあいだの、スイートスポットを探す
自分に親切にしてくれたあの人、自分を助けてくれたあの人
そういう、具体的な人の顔を思い浮かべながら作ることはできる
こういうスタンスで作ったものは、人の反応もいい
同時に、その顔たちを頭の中から一旦消して、ただひとりで作ることも重要に感じている
その孤独な探検によって見つかるものは、あとで「あの人」たちの価値になる
発見したものを、「あの人」たちが喜んでくれるものになるまで磨いていく
そのプロセスはとても面倒で、途方もなく感じるときがある
それでも、出発点は自分の感動でしかあり得ない
それがないと、段々と「あの人」たちが、「大衆」にかわり、彼らへの怒りが募る
自分が価値を感じて、感動した体験が、他の人の価値や感動になるまで表現をする
その橋渡しのような行為が、自分にとっての制作なんだと思う
こちらとあちらをつなぐ橋、それは方便とも呼べる
方便は、英語で「アクセス」
こちらの世界に来てもらうためのアクセスを作る
なぜ、「こちら」の世界を体験して欲しいのだろう、と考えた
一人で体験して、終わりじゃダメなのか?
「あちら」の世界に自分が行って、彼らが求めるものをそのまま渡せばいいんじゃないか?
少なくとも、「こちら」に来てほしい、というのは、寂しさやエゴではなさそうだ
エゴを優先させるなら、私はとっくのとうに「あちら」へ行って、理解され、認められ、幸せになっているはずだから
新しいけど昔からあった当たり前
命が自然に輝ける場所
最高の遊び場としての宇宙
これをもたらすために必要だと思ってるから、「こちら」側で表現をしている
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