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流れない石ころ

 

先日、チバユウスケが死んだことを知った。 その時点で、俺の中のチバユウスケが「もう死んだ」チバユウスケにアップデートされた。もし俺が彼の訃報を知ったのが一年後だったら、俺の世界ではチバユウスケはあと一年生きていただろう。しかし俺は、チバユウスケの訃報を知ってしまった。
 だから、俺は困っている。彼の作った名曲群の数々を愛聴してきた俺だが、今ではそれらを聴く度に、頭の片隅に、チバユウスケの死がチラつく。
 音楽は、時空を超越している。録音したその時だけの空気、熱量、感情の全てが、再生される度に、この世に数分間蘇る。音楽が鳴るその時、チバユウスケは百年後にだって生きて現れて、未来の人間と触れ合うことができる。本人が死んでいようがいまいが、彼の作った音楽は何ら変質しない。
 変わったのは俺だ。俺が、会ったこともない、ただ一方的に音楽を聴いたり演奏したりしていただけの俺が、彼の音楽に過剰なセンチメンタリズムを上乗せしている。たまたま自分が生きている時にチバユウスケが死んだ。それだけのことに、俺は謎のエモーションを爆発させている。そもそもなんだこの文章は。突然どうした。俺はチバユウスケが死んだ途端に、チバユウスケのことをこんなに考えている。これが取り憑かれるということだろうか。だとすれば幽霊は、俺が自分の頭で生み出したのだろう。
 
 チバユウスケは、おそらく女性が苦手だ。頼まれたって、グレッチでぶったりはしない。美女を目の当たりにしようものなら、革ジャンの裾を掴み、黒いドクターマーチンのつま先を擦り合わせながら、ソワソワしちゃうだろう。サングラスがない場合、ずっと目を逸らしながら喋るだろう。俺の中でチバユウスケは、そんな感じだ。そしてそのイメージは、もう裏切られることはない。
 もしチバユウスケが生きていれば、きっと俺のイメージにかけ離れた一面をどんどん披露していったことだろう。その点、死んだチバユウスケは俺に寄り添い続ける。死によって、俺は彼を所有してしまった。理想の他人が、生きている時以上に生き生きと脳内に存在するとしたら。恐ろしい話だ。
 もっとも、こんなテンションは一過性のものに過ぎない。そのうち穏やかな気持ちで、彼の歌を口ずさむ日が来る。その気配を、既に俺は感じている。しかしそうなると、それはそれで自分が薄情な気がして、後ろめたい気持ちで彼の音楽に触れることになる。全く厄介な俺だ。

 一方ネットでは、ありがとうだとか、ご冥福をだとか聞き続けるよだとかコメントして、それでもう終わったことにしようとする動きが目立つ。実に合理的で健康的な手続き。これが模範的現代人だ。それを証明するかのように、そういうコメントにグッドボタンが殺到する。
 誰かの言葉に自分の感情を当てはめて、ボタン一つ、ボタン一つでお前は、本当は何を感じていたのか、忘れてしまうんじゃないか。なぜこんなに、何もかも、流されていくんだ。こんなに流れが速かったら、お婆さんも桃太郎の桃、キャッチできないぞ。物語始まんないぞ。いいのか。

 きっと、いいんだろうな。桃太郎がいなくたって、他に何なりと流れてくる。適当な社会人を適当に転生させ続ければ、そいつが代わりに全部倒してくれる。ワンピースに出てきた海賊達も、フリー素材にして皆で使いまわせ。二億ベリー以下の連中なんて、もはや誰が誰だか見分けもつかないだろう。光っている竹とか、虐められている亀とかも、全部スルーしろ。だが、写真を撮ってSNSに上げるのは無しだ。そうだ、それでいい。俺、そういうのはホント無理だから。

 賢いお前達よ。穏やかに、水面の落ち葉みたいに、流れていけ。それがきっと正解だ。
 俺達は石にしがみついて、ここで朽ちていくだろう。やがて苔が生えて、いつか森になっていくだろう。そこには変なキノコとかが生えていて、それを誰かが食べて、そしたらそいつの腹の中で、いつかのロックンロールが鳴り響くだろう。


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