見出し画像

「反脆弱性」講座 23 「わかった、じゃあ君のポートフォリオを見せろ」

「反脆弱性」講座も終わりに近づき、「倫理」について語るときが来たようです。

誰かがアップサイドを手に入れることにより、もう一方が知らない間にダウンサイドを負わされ、損を蒙っているという事実です。昔からこういうことはありましたが、特に最近は、現代性にうまく隠されて激しくなっています。

これはいわゆるエージェンシー問題でもあります(エージェンシー問題とは、利害関係を異にするために、一見同じ立場のようで異なる意図をもっている、医者やコンサルタントなどの問題)。

この逆は、一種の英雄的行為、犠牲的行為です。つまり他人のために自らリスクや不利益を負う人です。伝統的な社会では、他人のためにどれだけダウンサイドを背負う覚悟があるかで、その人の価値や評価が決まりました。騎士、将軍、司令官、また聖人もそうなのです。

その反対に、現代では、銀行家、企業幹部(起業家をのぞく)、政治家など、社会から無料のオプションをかすめ取っている連中に権力が渡ることが多いのです。

この観点から見たときに、世界には3種類の人々がいます。1つは、リスクを取らずに他人から利益をむさぼる人々、2つ目は他人から利益を奪うことも他人を傷つけることもない人々、そして、3つ目は他人のために自己を犠牲にして害を引き受ける人々です。

現代は、この1つ目の人々がどんどん増え、明らかに利益と不利益の非対称性が大きくなっています。古代、この問題を解決していたのは、ハンムラビ法典で、たとえば「建築者の建てた家が崩壊し家の所有者が死んだ場合は、その建築者を死刑に処す」とあります。

この法典では、家の土台の隠された欠陥について、今よりはるかに先進的にリスク管理をしています。そして、目的は罰することではなく、人を傷つけないように事前に歯止めをかけることなのです。つまり、確率の低い極端な事象、ブラックスワンを事前に防いでいるわけです。

デブのトニーは、次の2つのヒューリスティック(昔からの試行錯誤の結果の人々の知恵)を使っています。それは①プロのパイロットが搭乗していない飛行機には乗らない、②副操縦士も搭乗している飛行機にしか乗らない。ということです。

①は、#ハンムラビ法典 と同じで、リスクを取らない人の予測、行動は信じない、ということです。②は、冗長性(安全性の幅)を設け、最適性を避けて、リスク感受性の非対称性を緩和する(もっと言えば、無くす)ための方策なのです。

私たちは、成功したか失敗したかに関係なく、起業家やリスクテイカーをピラミッドの頂上に置くべきです。そして他人をリスクをさらすくせに自分ではリスクは負わない学者、知識人、評論家、おしゃべり屋、政治家という非倫理的な人々はピラミッドの底辺に置くべきなのです。それなのに、現代社会ではその逆をおこなっています。

この後者の連中は、自分の意見を信じた人たちを傷つけても一切責任は負いません。つまり脆さを他人に移転しています。こういう現象は昔からあったかもしれませんが、情報化が進むにしたがって、縦横無尽に人々がつながり、因果関係の鎖が見えにくくなってきているため、はるかに深刻になっており、社会全体に脆さをもたらしているのです。

ジャーナリストのトーマス・フリードマンは、イラク戦争のきっかけを作ったにも関わらず、その間違いの代償を払っていません。著書の「フラット化する世界」においても、グローバル化が脆さをもたらすこと、副作用としてもっと極端で深刻な事象を引き起こすこと、またこのような複雑なシステムがうまく機能するには高度な冗長性が必要であることに気づいていません。イラク侵攻の件で間違いを起こしたのもこれらの点で理解が出来なかったからなのです。

経済学者のジョセフ・スティグリッツは、ファニー・メイ(2008年に破綻)についてタレブ氏が警鐘を鳴らしていたころ、ファニー・メイのデフォルトの確率は、「推定するのが難しいくらい小さい」と述べ、「デフォルトが起こっても政府が影響を受けるリスクはゼロに近い」と報告しています。この種の発言が、この稀少な事象に対して経済界がエクスポージャーを高めることになった元凶なのです。

にもかかわらず、スティグリッツは2010年に、「自分はこの危機を予測していた」とする著書を出しました。学者は何のリスクも冒さないものだから、自分自身の意見すら覚えていないのです。

もしスティグリッツがビジネスマンで身銭を切っていたら、彼は吹っ飛び、終わっていたでしょう。また、もし彼が自然界にいたら、彼の遺伝子は絶滅していたはずです。

このスティグリッツ症候群は、経済界が微小な確率をまったく理解できていないという病理です。再び私たちを吹っ飛ばすことになっても不思議ではありません。

また、これは、いいとこどりの形ですが、加害者が自分の行いに気づいていないだけに一番質が悪いのです。「自分は予言していて警告も発しました」と自分に言い聞かせるのです。つまり、出来事が起きた後に物事を説明する「後言者」たちは、過去の矛盾する数多くの思考の中から「実は予言していた」という証拠を引っ張り出し、自分は予言していた、と思い込むのです。

実際には、経済危機において、学者の研究成果を信じた社会がツケを払わされ、格付会社の無能さによって多くの罪のないリタイアした投資家が大きな被害を受けました。

この倫理的な問題を解決する1つの方法は、「他人に意見、予測、アドバイスを求めてはいけない。単にポートフォリオに何があるか(本人が何にリスクを負っているのか)を尋ねればいい」ということです。

実世界では、その人がどの程度の割合で正しいか、ということはほとんど意味がありません。脆いタイプのペイオフではアップサイドがほとんどなく、反脆いペイオフにはダウンサイドがほとんどありません。従い、反脆い状況ではずっと損をし続けても致命的でないのです。何年間も間違い続けても、たった1回正しければ、損失は少額で利益は莫大なのです。

ところが実務でなく、言葉だけで「崩壊」を予測した場合は、「数年間も間違っていた」とか「ほとんどの時期間違っていた」と言われるのです。

起業家のケースも同じで、しょっちゅう間違え、たくさんのミスも犯しますが、起業家は凸なので大事なのは成功による莫大なペイオフです。

言い換えると、実世界の意思決定は行動であり、タレス的ですが、言葉による予測はアリストテレス的なのです。つまり「カモは議論に勝とうとするが、カモでないヤツらは勝とうとする」ということです。

母なる自然にとっては、意見や予測、当たったかどうかなどどうでもよくて、重要なのは生存なのです。生物の世界はただ生存によって進化しており、社会にはびこっている「追認の誤り」が大嫌いなのです。にもかかわらず、経済制度がすべてを台無しにしています。たとえば、大きくて潰せないから税金で救済する、という政府の支援などです。これにより、カモはますます肥大化させています。

株式市場は、これまで業界規模で反脆さの移転が行われきた最大の分野です。経営者に対する「インセンティブベース」は、実際にはアップサイドはありますが、ダウンサイドはありません。また、企業は有限責任であり、所有と経営が分離されているため、経営者は他人のお金を管理しているわけです。つまりこの会社の飛行機にはパイロットが乗っていないのです。

銀行業界も、ダウンサイドは社会、つまり納税者が肩代わりし、銀行家はアップサイドだけ享受するのです。これらは明らかな非対称性です。

商業界のいちばんの問題は、引き算(「否定の道」)でなく足し算(「肯定の道」)だけで機能していることです。たとえば、製薬会社にとっては。人々が砂糖の量を抑えて健康になろうとしても何の得にもならないのです。

大企業は最適化をしています。つまり一定の仕様に対して最割安で提供するのです。またマーケティングにお金をかけます。過剰なマーケティングが必要な商品は、必然的に劣悪商品か悪徳商品のどちらかです。

資本主義の根本的な問題は、個人とは異なる単位の存在にあります。公開企業は恥を知りません。企業には同情心、道義心もありません。また寛容の精神もなく、あるのは私利的な行動だけです。一方私たち人間には一定の本能的な抑制が働き、人と人の間でのときどきの寛容な行いで機能しています。

こういう企業システムは、あまりにも長い間、あまりにも多くの人をだまし続けることはできません。大企業は長い目で見れば脆いのです。やがてはエージェンシー問題の重みで押し潰される運命にあります。