【要約】ブラック・スワン 第18章 まやかしの不確実性
以前、カジノの話で、「お遊びの誤り」の説明をしました。ルーレットをやれば、時間がそうたたないうちに打ち負かされます。ノイズは相殺しあいますが、能力(この場合はカジノ側に有利なオッズ)は相殺されないからです。
#ランダムウォーク 、#サイコロ 、コイントス、悪名高きデジタルの0と1、 #ブラウン運動 、等において設定できる #ランダム性 は、質の点でランダム性と呼ぶ価値はありません。この手の理論は、核心の部分でお遊びの誤りに根差して、重要な不確実性のレベルをひとつ無視しています。
量子力学の分野で、ある種の数値の組み合わせを同時に計測することはできないと言われています。たとえば、粒子の位置と動きがそうで、測定誤算に下限ができてしまい、それ以上は理論的に不確定になります。これが #不確定性原理 です。
この不確定性原理を #不確実性 に関係あるとするのは、間違いです。なぜなら不確定性原理はガウス型だからです。データが操作しあい、ランダム性は平均で消えてしまいます。従い、不確実性を素粒子にかこつけて語る専門家はインチキです。目の前のマンモスを無視して、顕微鏡でも見えないものばかり見つめているわけです。
大金より小銭を気にする人は社会にとって危ないと言えます。どうでもいいことにばかり焦点をあてて、不確実性の研究を台無しにしていまいます。私たちの持つ資源には(認知の点でも科学の点でも)限りがあります。彼らはそんな資源をほかへ回してしまい、黒い白鳥のリスクを高めます。
金融や経済学の人たちはガウス流に首までどっぷりつかっています。では哲学者はどうでしょうか?
哲学者は、私たちが当たり前だと思っていることを疑ってかかる仕事です。そんな彼らが株式市場をやみくもに信じて、年金基金の運用者の能力を信じていたりもします。彼らは、自分自身を疑いながら、一方で投資するときはちょっとの間も疑わないわけです。懐疑主義はこのように領域固有であり、医者も同じです。
哲学者の限界について、タレブは #カール・ポパー の以下の言葉を引用しています。
「哲学自身が衰退しているのは、哲学の外の問題を扱わなくても哲学的思考を行うことができるという誤った信念を抱いてしまった結果である。・・・純粋な哲学的問題は、常に、哲学の外に源を持ち、そうした源が衰えれば哲学的問題も滅びるのだ・・・」
タレブは、数学が現実の客観的な構造に対応しているのを否定はしない、と言います。そして、認識論的に言って、私たちは馬車を馬の前につなぐみたいな本末転倒をやらかしてして、間違った数学を使ってものごとが見えなくなる危険はやっぱりある、ということです。