【要約】ブラック・スワン 第12章 夢の認識主義社会

タレブは、自分自身の知識を疑ってかかる人を「 #認識主義者 」と呼ぶと言っています。さらに、人間のこの種の可謬性を念頭において法の体系がつくられる社会を「認識主義社会」と呼びます。

現代的な認識主義者の大物が #モンテーニュ です。モンテーニュは人間の弱さをすべて受け入れました。人間に深く根ざした欠陥や人間の合理性の限界、そのほか人間を人間たらしめている欠点を取り込んでいない哲学に意味はないと考えていました。

タレブにとっての理想郷は、認識主義の社会だ、と言います。しかしながら、現実には自分自身が間違いを犯すことがあるのを認め、それを掲げても権威を認めてもらえたりはしません。

だから、私たちが遺伝子を引き継いだのは、自分を振り返ってばかりいる頭のいい人についていった連中ではなく、我の強いバカについていった連中のほうです。

ここには、ひとつの黒い白鳥の非対称性があります。それは、確証より反証のほうが信じられるという点です。

私たちは、懐疑主義と実証主義をどうやって追求すればいいか、モンテーニュ以降もたくさんのことを学んでいます。私たちは、黒い白鳥の非対称性があるため、何が間違っているかについては確信を持っていいが、自分が正しいということに確信をもってはいけないわけです。

私たちが未来を予測するときに、過去と「同じような」未来を想像できるのであれば、過去をそのまま延長するわけなので、予測は可能です。ただし、偶然の混じった未来はそういうわけにはいきません。

過去と未来の間には非対称性があり、その非対称性自体があまりに微妙なので、私たちの頭ではそのまま理解することができません。

私たちは、明日のことを考えるときに、昨日のことをその前にどう考えていたかは思い出せません。この振り返れないという欠陥のせいで、自分の過去の予測と、その後実際に起こった結果の違いを学習できないわけです。

予測の間違いの例として、たとえば、新しい車を買おうとしている時、素晴らしいことをいろいろ想像し、ずっとその車で満足すると思い込んでしまいます。でも前の車を買うときもそう思ったのを忘れています。数週間で飽きてしまったことを。

一方で不幸な出来事に関しては、痛みは感じるかもしれませんが、私たちはどんなことにも慣れてしまえます。私たち人間は、あちこちでちょっとずつ自分をだますようにできています。しかしながら、最近の大きなリスクに関しては、そういうやり方では避けるのは難しいと言わざるを得ません。

タレブは友達からの借り物と言いながら、次のような思考実験を提起しています。

1)角氷があるとして、氷が溶けてできる水たまりの形を思い描く。2)床に水たまりがあるとして、心の目で、水たまりができる前にそこにあったかもしれない氷(角氷だったとは限らない)がどんな形だったか推測してみる。

1)は #前向きの過程 、であり、2)は #後向きの過程 であり、後者のほうがずっと複雑です。前向きの過程は、物理学や工学で幅広く使われていますが、後向きの過程は、繰り返しができない歴史分析で使われます。

たとえば、インドで蝶が羽をパタパタさせると、ノースカロライナでハリケーンを起こすというように、複雑なシステムだと、非常に特殊な条件の下で、小さな原因で大きな結果がでることがあります。

しかし、ノースカロライナでハリケーンが起こったとして、そあの原因を何らかの正確さで特定できるかは疑わしいわけです。

世界の歴史は、同時進行で起こる何十億もの事象で形づくられています。仮に歴史が「世界の方程式」みたいなもので生成された、 #ランダム でない事象の連なりであったとしても、その方程式を #リバース・エンジニアリング で突き止めることが人間の身にできないなら、世界はランダムなのと同じだということになります。

そう考えると、歴史家の仕事には根本的な問題があるということになります。現実には、ランダム性とは不完全情報のことであり、第1章で「不透明」と呼んだことになるわけです。

こうして話は、七面鳥、そして過去に取り込まれないためにはどうしたらいいかという点に戻ってきます。経験学派の医者たちは、帰納の問題に、理論化を行うことなく、過去を知るという対応をしていました。

歴史から、因果関係を読み取ったりしない、リバースエンジニアリングに精も出さない、ということです。

ただし、ほとんどの歴史家は、因果関係を追及します。また #マルクス#ヘーゲル のような歴史理論家はみんなそうです。私たちのかかった講釈の誤りはそこまで重症なのでしょうか。

このように歴史そのものを知ろうとしても問題がおこるわけです。