雑記 2021/10/21
友人のキラキラしたインスタのストーリを見て、ため息をつく。
パチ屋の屋外喫煙所。
映るのは高校時代の同級生。国試に合格したらしい。
どのくらい大変なのか、無知な僕にはわからないが、単純にすごいと思った。尊敬に値する、とも。
たくさんの友人たちに囲まれて、笑顔で写真に写る彼女は、とても幸せそうに見えた。
1年の浪人を経て、大学に進学して2年半。
順調に進級し、すでに内定をもらった同級生たちは、来るべき春に向け、新社会人としての気構えを胸に、明るい日々を過ごしている。
そういったものが目につくたびに、どうしようもない自分に嫌気がさす。
「どこで間違えたのだろう」
「どこで躓いてしまったのだろう」
そんなどうしようもない自責の念ばかりが頭の中をぐるぐると渦巻く。
過去をいくら悔やんでも、この陰鬱とした繰り返されるだけの毎日は、何も変わってはくれなかった。
画面に映る彼女と、現在の自分。
その決定的な違いは何だったのかと、過去に思慮を巡らせては、ありもしない間違いを探して回る。
順調に自分のやりたいこと、やるべきことをこなし、就職先も決まり、国家試験にまで合格して、友人に囲まれて幸せそうに笑う彼女。
かたや、その様子をタバコを吸いながら眺め、こうして行き場のない感情を吐くかのように書き出している僕。
嘆きといえば聞こえは良いが、こんなものはただの嫉妬で、羨望で、懺悔であることに変わりはない。
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煙草を吸うやつは馬鹿だと思っていた。
体に害があるものを、自ら好き好んで取り入れる理由がわからなかった。
ギャンブルにハマるやつは愚か者だと思っていた。
そんなものは病気の延長線上で、得られる幸福感など一時的なものだと考えていた。
それがどうだ。
偉そうに斜に構え、人のことを見下していた自分が、いつのまにか見下していた側の人間に落ちぶれている。
これ以上滑稽なことがあろうか。
間違いなく、一番の馬鹿で、愚か者で、世間知らずなのは僕だった。
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いつだったか、こんなことを書いた。
神様なんてものがいるなんてことは考えたことはないし、奇跡や偶然も信じてはいないが、何の因果か、人間なりたくなかったはずの人間に、気づいたらなっているようである。
なるほど、ここまで気づいていながらもなお、なにも学ばずに僕はこうしてダラダラと、非生産的な日常を繰り返してきてしまったらしい。
気づきや学びを得ていながら、それを自分の物にできない、する努力を怠ってしまう、自分の怠惰が憎くて憎くてしょうがない。
<引用元>
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人生は選択の連続である。
どう生きたいか、何を成し遂げたいか、自分の未来は大抵自分で選び取ることができる。
いつも笑顔でいた彼女は、自ら進んで自分の未来を少しでも明るくなるように取捨選択してきた。
対して、未だ何も為せていない僕は、こうして自分の人生を悲観し、嘆くだけで、よりよくあろうと積極的な選択をしようとしない。
たぶん、僕と彼女の決定的な違いはそこにある。
身についた癖や習慣は、簡単に変えることはできない。
それは思考の傾向、考え方の癖も同じで、一度身についてしまえば、その傾向も根強く自身に影響を与える。
こうしてみると、言霊の力という考え方も、あながち馬鹿にはできないのだなと思う。
変われない僕が変わるには、彼女のように能動的に、自身の未来をつかみ取りに行けるような人間にならなければならない。
今の僕にはそれはとても難しいことで、とてもしんどいことだ。
それでも、この変わり映えのしない、陰鬱な毎日を過ごすよりは、少しでも良い方に良い方に、自ら行動できるようになりたい。
そんな風に思う。