ホン雑記 Vol.157「自分の歩道は自分で照らせます」
なんとなく励ましというか鼓舞系の記事が続いてしまう。ウザかったらすまんねー。
人を傷つける言葉を吐かないように心がけるのはいいことだろう。世の中がそれを目指していくのもきっといいことだ。
でもね、ちょっと前提を付け足しといたほうがいいんじゃないかと思ったりするのだな。ここ最近の世の中は特に。
人を言葉で傷つけないということ以上に、「人の言葉に傷つかない」を根底に持っておいたほうがいい… いや、持っておくべきだと思う。
最近の世の中は、どうも「赤ちゃんの弱さが持つ強さ」のようなものに気づいてしまったんだと思う。
承認欲求や、われ先にや、なんでアイツだけ? や、うまい汁や、ヘタを打ちたくないなどが、以前にも増してひどくなっている肌感がある。VUCAでFOMO(また言いたいだけ)の時代がそれらの思いに拍車を掛けたんだろうか。
言いたくないけど、オレの中にもだいぶある。文句言いなヤツが嫌いなクセに、パワーウィンドウの開く遅さに「はよぉ開けろやこのボケー!」と口をついて出た時は、閉口してしまった。なかなか失われた信用は自分自身にも取り戻せないでいる。窓には開けと言いながら、自分は口を閉ざすというそのコントラストが美しいじゃないか。美しくないわ。
これは「どうしてくれるん?」の弱さを使った強さであり(弱いんだが)、ヤクザの精神となんら変わらない。こういう強さにみんな気づいてきた。
「子供を持って初めて、本当の意味で親のありがたみが分かった」
たとえばこんな文章を見かけたとする。
「弱さ病」に罹ると、これを見た瞬間に「じゃぁ、子供のいない私は親への感謝が足りないっていうことですか~!?」が脊髄反射で発動する。
いや、なるほど、ちょっと理に適っているように見える。でもそれは「温かいお茶はお出しできません」と言われて、じゃぁ冷たいお茶が出てくるのかな? と思っていたところに、常温のお茶が出てきて「ぬるいやないかワレコラー!」とキレているようなものだ。ちょっとこのたとえズレてる?
まぁ、なんとなくニュアンスで読んでつかぁさいな。つまり「そんなことはひとことも言ってないんですけど」なのである。
「子供のいない人は、親のありがたみが本当の意味で分かっていない」とはまるで言っていないのだ。むしろ、「(みなさんはすでにお気づきだったかもしれませんがこのわたくしめは)子供を持つことでやっと分かったんです」という謙虚な幸福感の吐露だったのかもしれない。
そうすると「いやいや、コイツは子供のいない夫婦を絶対に下に見てるに決まってる」という発作が起こる場合が多々ある。
決まってると決めつけるぐらいだから、きっとその発作マンも、謙虚パターンと見下しパターンのふたつの可能性があることを、本当は自覚してると思うのだ。
そして、自分にとって不利な状況の「if」をセレクトしてしまう。これが弱さ病の特性だ。どうせ言った本人に本音など聞き出せるわけもなく、どっちの可能性もあるなら、自分にとってマシなほうを真実とすればいいではないか。
これは挨拶が返って来なかったら「無視された」と思い込んだり、人の笑い声が聞こえたら「自分が笑われている」と決めつけたりすることに似ている。
まぁ、難しいのかもしれんけどなぁ。
オレは目が合っただけで「あのコ、オレのこと好きなんじゃないか?」と思う回数がホントに多い(いまでも思い当たる)おめでたいヤツなので、よー分からんのだわ。
心の奥底では勘違いだろうことは気づいているんだけど(心の表層ではまったく気づきませんよ僕は)、そのへんはポワ~ンとさせといたほうが楽しいじゃないか。
自分の脳が映すもの以外に、確かなものなんかないんだから。
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