「祈り」は「医の理」 ~ソウルケア~
どうもかずぴんです。
以前に、「歯科治療におけるソウルケア」という難解なタイトルで記事を書きました。
リライトして、一般の方向けに変更しましたので公開してみます。
以前の有料記事には症例の写真を一部使用していましたが、この記事には載せていないです。ま、特別意味のある症例写真ではないですが。
最初に断りますがかなり長文です。
本稿の目的・効能
・ソウルケアという概念の提唱
・ソウルケアとは、技術的な対応によらず患者さんの抱える精神的肉体的苦痛を取り除きたいという、カウンセリングスキルに近いものです。疾患の治癒を目指す!という技術論ではないです。
・ソウルケアという概念を用いて医療を再構築することで患者さん医療者双方に良好な結果を生み出す可能性を模索する
・特別な技術や、器具は使用しない、即時始められる
・だれでも実践できる
では、以下長文ですが。リライトしたもの載せていきます。
ソウルケア、というのはわたしかずぴんの考えた概念です。歯科治療の技術論ではなく、精神論、コンセプトです。
簡単に言えば、患者の歯科疾患の治癒を目指すものではなくて、歯科疾患を抱える患者の精神的苦痛を取り除くことも大切だよね!っていう考えなんです。ここでいうソウルとは患者さんの精神、想いなどの意味程度に使用しています。宗教的な意味はないです。
この概念を考案してから、歯科医療との向き合い方も良い方向に変化しましたし、患者からの反応も悪いものではないのではと思ってます。入れ歯がなじまない患者さん、予約時間を守られない患者さん、実現不可能と思える要求を突きつける患者さん、実際の仕事場では簡単には対応できない場面は非常に多いんです。でも、こういった困難を抱える患者さんほど多くの苦しみを抱いているのも事実なんです。意思疎通困難しにくい対応が困難な患者、などとは決して思わないで誠心誠意対応しているんです。
で、このような状況においても自身の精神を大きく乱すことなく対応するスキル、これがソウルケアの考え方でもあります。
患者さんのソウルをケアするということは、たぶん患者さんと向き合る自分自身のソウルも安静にしてくれるのではいのかな。
ソウルとはすなわち精神・心のことです。ソウルをケアすると言う事は患者もつ苦痛を物質的・物理的アプローチによらない方法で取り除くことを指します。何か特殊な歯科治療技術を提供することじゃあないです。
私たちはあくまで歯科医療従事者なので、診療行為としては療養規則に則った歯科診療しか行うことができないわけです。でも、診療行為・医療行為など法的規制のある行為以外の、あらゆる非物質的な精神的アプローチは何ら妨げられてはいないと思うんですよ。患者さんの抱える歯科疾患を抱えることで生じる精神的苦痛・苦悩それらを少しでもだけ楽にしてあげたい。この気持ちが出発点です。
具体的な治療技術によりもたらされるものではなく、患者との価値の共有、主に会話の中で生まれる新たな気づき・価値観が大切になります。
私の私見ですけど、殊に歯科医療従事者は、物質的なアプローチを好む傾向にあるように感じます。歯科医療は外科処置を主とする小処置の連続、なんですよね。歯を削る、抜歯する、歯肉内部の歯石をとる、歯肉切開処置など多くの歯科処置が外科的処置に分類されます。で、そういった特性上、何か、こう物理的変化を患者にもたらさなければならない!(悪い歯はしっかり抜かなければいけない、虫歯は削ってかぶせものをいれる治療を行うべきである、など)という観念にとらわれやすい傾向があるように感じます。もちろん、実際に削る、抜く、かぶせるとかの歯科治療によってのみもたらされる治療結果は歯科医療にとって重要な要素ではある。
以前の有料NOTEでは症例の写真も添付してたんですけど、専門的なので省きました。
ここから実際のプロセスを再現してみます。
例えば、銀歯を入れていた歯が不幸にして折れてしまい、来院した患者さんを想定してみます。患部に痛みはない。この場面において、多くの歯科医師はまず抜歯を第一選択とし患者にも説明し、実際に抜歯を行うものと考えます。でもソウルケアの視点からはそうじゃないんです。
結果から言うと、私だったらまず状態を詳細に患者さんに説明します。未来予測も与えます、そして患者さんにしっかり同意をとった上でとれた銀歯をを再セットします。折れている歯に銀歯を戻す!これは無謀とも思えるかもしれないですけど、そのことで起こり得る危険もすべて説明して同意の上、行います。ですから患者も納得しています。
会話の流れはこんな感じです。
かずぴん「痛みはありますか」
患者「ありません」
かずぴん「状態を見せてもらうと、残念ながらあまり元気のない歯のようです。(わたしは日常このように表現します。内容は同じかもしれないが、もうダメな歯です、という直接的な言葉よりも印象がソフト)もし、何らかの介入を行う場合は抜歯となるでしょう。しかし、この歯がない状態でも、もしくはこの歯があった時から右側で噛んでますよね?」
患者「そうですか。なんとかなりませんか?食事は右で噛んでます。」
かずぴん「じゃあ、現状では全く問題はない、とはいいませんが、食事も摂れているわけですね。」
患者「そうですね」
かずぴん「じゃあ、この歯は居てはだめなんですかね?」
患者「え?どういう意味ですか」
かずぴん「現状右側で噛むことはできる、そして左上の歯は折れているわけですよね。でも普段使いはしていない。じゃあ、この歯はもうダメだと認識し共有したうえで、付け直して様子をみてはだめなんですかね?多少の出血、ぐらつきはありますけど、そのことによってあなたは相当の苦痛がありますか?もし抜いたほうが楽だとおっしゃるならそうしますが。」
患者「いえ、抜かないほうがいいです。少しのことなら我慢するので、もしつけれるならそうしてください」
かずぴん「では、今日はこの歯の元気がないということを共有できましたし、付け直して対応しますね。でも高い確率でまたとれるでしょう。そうしたら持ってきてくださいね。付け直すかどうか相談しましょう。いつの日か、それは私が決めることでなくて、あなたの心の内面から抜歯してほしい、という日が来ますからその時が来たらまた一緒に考えましょうね(ここでも抜きましょうとは言わないようにしている。あくまで一緒に考えて決めていきましょうというスタンス)もうこれは抜かないとだめでしょ、という気持ちがあなたの内面に沸き上がったときが多分抜歯のタイミングなんじゃないですかね」
と会話を進めます。そして銀歯のかみ合わせ調整を入念に行い再セットします。
筆者「今は炎症が周りに広がってないから付け直すという話ができますけど、将来炎症が広がって他の歯に影響がでそうなときは、他の歯を守るために残念ながら処置を決断しないといけないと思います。またメンテナンスの時にでも確認のレントゲン撮りましょう」
と一言添えます。
これが患者との会話、価値の共有から生まれるソウルケアに1例です。
折れている状態なので、歯科治療を行って保存できる状態では全くないですが、抜歯を選択しないという方向性もありますよ、どうしていくのがいいか一緒に考えましょう、と会話を進めるわけです。
結局、何もしないで先延ばししているだけで、なんですよね。遠くない将来抜歯を行う日はほぼ確実にやってきます。でも、抜歯を行うのは今日ではなく、また、それを決める主体はあくまで患者さんなんですよ、という点を強調します。
患者には治療をする選択肢も、しないという選択肢もある、すべては自由である、と伝えます。その上で方針を決めます。さらには、極論方針が決まらなくてもいい、とも考えてます。こちらが主導で決めることじゃないですから。次回再度相談しましょう、でいいです。
選択肢があり、自由に決定できる環境で物事を考えられるのは少し楽なんじゃないでしょうか。かずぴんはよく、これをしなければならない、~~しなければならない思考を捨てましょうと説明します。これは患者さんにもスタッフにも、です。今決めてもいいし、決めなくてもいいんです。
この一連の流れが、かずぴんの考える「ソウルケア」です。
例えば義歯をなかなか使用できない患者さんにも、義歯は大変な治療であることをねぎらい、こちらもできるだけ快適に使用できるよう全力で調整を行うことを強調し伝えます、一緒に取り組みましょうと伝えます。今後義歯の必要性がなくなるわけではないんですが、義歯を使わなくてもいい、とも伝えちゃいますね。歯医者だけど。義歯を使わないなら使わないなりの生活を意識すればいいんですよ。奥歯がなくて前歯だけで食べるとしても、注意してればそこまで歯の破壊が生じる可能性は高くないのではないでしょうか。柔らかめの食事を食べてくださいね。と。ここまで言い切ると精神的に楽になってもらえる患者も少なくない感じます。
あらゆるケースで、患者さんに最も大切と考えて説明するのは、
「一番の治療のゴールはあなたの歯の健康が少しでも長持ちしてくれることなんですよ」
ということです。
スタッフにもよく言います。あなたは診療においてどんな治療をしてもいいんだよ、と。当然あくまで医学的妥当性は認められる範囲において、ですけどね。患者への説明、同意、価値の共有が最も大切で、それが前提であればどんな治療アプローチでもよいわけなんですね。極端に言えば、患者の歯をすべて抜歯し総義歯にしても、一切の治療を行わないことでもOKなんです。お互いに合意があって、医学的妥当性が認められて、患者も十分に納得しているのであればどのような方法論でもいいんです。そこに至るまで尽くされてきた議論そのものが「治療」の本質なんだと考えます。
そして、これは賛否の分かれる考えであることは十分承知の上で書きますkけど、患者さんは医学的に正しいとは思えない価値観を有していることも少なくないんですね。ですからまずは患者さんの目線で始めるべきなんです。とすれば、「医学的妥当性」の重要性は患者さんとの議論の中ではあまり重要でないかもしれません。
さっき書いたモデルケースも、まさに患者さんの価値観から出発してます。明らかに抜歯が第一選択になりそうな症例ですけど、歯科医師から見たら御法度ともいえる再セットの対応を行ってますから、患者さんの価値観を中心に対応したケースであると言えますね。この対応方法では「医学的妥当性」には重きをおいていないわけです。
このアプローチ方法を考案してからは、患者さんからは「そう言ってもらえるとうれしいです。」と言葉をもらうことも増えたように感じます。
加えて、あらゆるケースにおいてすべての出来事に正の意味を持たせることも大切であると考えます。どういうことかと言うと、これまでの経過を振り返り、見方を変えることで患者さんにプラスのイメージを持ってもらうということです。
上記のケースでは「歯の状態は悪いと言わざるを得ないが、この歯がここまで折れるまで耐えていたからこそ、ほかの歯が健全で存在しているのですよ。折れたところ以外の歯で快適に噛めているのも、この歯が必死に支えていたからですよ」と。こうすることで、これまで受けてきた銀歯の治療や、経験してきたあらゆる精神的肉体的苦痛も昇華されるのではないでしょうか。そして前の歯医者の治療に対する評価も悪いものにはならないと思います。
示したように、わたしの考える「ソウルケア」は患者さんとの会話、価値観の共有、治療のゴールの確認等から得られるものです。
「この歯を抜くことは絶対必要なのであろうか」
「そもそも歯科治療介入はかならず行われるべきなのであろうか」
など既知の治療の概念を根底から再定義し考えています。
かずぴんは常に目の前の患者にとってもっともよいと考えられる結果とは何か、を考えてます。患者さんは口腔内に何らかのトラブルを生じ、覚悟を決め、不安に思いながらも歯科医院に来院しているのですよね。でも、必ずしも物質的物理的な対応のみを行うことが必要ではない、とは考えられないでしょうか。困っている歯があるとする、ではこの歯にどのように向き合うのか、これを一緒に考えることは不要なんでしょうか。何らかの不快な事象は事実として確認し、診査診断の結果をおよびその原因を患者さんと共有します。例えば、歯がぐらつくことがあなたに与えている苦痛はいかほどですか、という具合ですね。ぐらついたままの歯とは付き合っていくことは可能ですか、とききます。
患者さんと議論を尽くした結果、抜歯・削るなど不可逆的対応を行わないままで経過観察しましょう、となるケースを数多く経験しています。どのような状態の悪い歯であっても、遠からず抜歯の運命であることは自明である歯牙においても、ソウルケアの適応により迎える結末に対する患者さんの価値観、想いはわずかでも良いものとはならないでしょうか。
この流れは、ある意味「祈り」に近いと個人的に感じています。
歯がもうダメになっている、けど、存在していてもいいんじゃないですか。なにも治療することだけが必要なんじゃない。向き合って、これまでの歴史を認めて、ダメなりに付き合っていけばいいじゃないですか。
歯科治療とは多くの場合は外科処置です。なので、多くの歯科治療は不可逆的であり一方通行なんです。後戻りはできません。ですから、なおさら処置の適否、緊急性、患者さんの持つ医療観、病識などを徹底的に情報収集したうえで臨まないとだめなんです。抜歯処置等はその最もたるもので、抜歯処置したら当然その歯はなくなりますからね。
歯科医師による適切な診査診断をしてから処置しますが、処置そのものは患者さんにとって絶対的に必要かどかをいつも考えます。さらに患者さんの精神、ソウルを少しでも救うことはできないでしょうか。処置を行わなければその患者さんの生命に関わるもしくは著しく人生の価値を毀損するかという点はよく議論を深めるべきです。
痛み、腫れ、排膿、大きな苦痛を認められる場合には患者自身の内面から歯を抜いてほしいと言う気持ちが湧き上がるでしょうし。では逆説的には、それ以外の場合はどうでしょうか。歯科医師もしくは歯科医療従事者主導のパターナリズムに基づく治療方針の決定にはなってないか気を付ける必要があります。
抜歯1つ考えてみても、抜歯を行わずに患者さんのQOLの維持を行うことができないかどう考えてみます。
清掃指導を繰り返しても歯磨きの習慣が定着しない患者さんもいます。予約を守ることができない患者さんもいます。多くの問題を抱えた患者さんが存在するのです。彼らの多くは、歯科的問題に起因する多大なストレスによりソウルに問題を抱えているといえます。
ここでわたしが提案したいのは、「治療しない」と言う治療です。しばしばこの対応を行います。患者さんには詳細に患部の状態を説明し、その上で治療の選択を一緒に行います。その結果、処置そのものを行わず話し合いのみにて治療を終えることも多いのです。
患者自身が大きな決心をし、恐怖心を抱き歯科医院に来院するわけですが、ここで患部の状態をよく考えたうえで、歯科医師が治療しないという方向もあるんですよと伝えてみます。この一言に患者さんはどう感じるでしょうか。自分自身の口腔内の状態が良くない事はおそらく自覚もしているでしょうし、こちらも嘘偽りなくその状態を伝えます。その上で治療をしないと言う決断を行えばいいんです。この考え方です。この考え方がソウルケアです。
患者さん自身も来院したからには何か具体的な処置を行わなければならないと言う固定概念・ドグマに囚われていることが多いです。同時に歯科医療従事者側も患者が来院したのであれば、何らかの具体的処置を行うべきであると考えがちです。わたしは、自らの考えを患者に説明することそのものが治療であると考えています。そして、話をすること、そのことが治療になるんですという考えを患者にしっかり説明します。
「今話をしている、この話そのものが治療なんですよ」と。
お互いのそういった心理的な固定概念を取り払い、お互いにより良い価値を構築できる結果、何らかの治療を行わないにもかかわらず十分な患者満足が得られる。ということを幾度と無く経験しています。
簡単な言葉で言えば患者さんを安心させると言うことでしょうか。患者さんにはいつか治療介入を行うべき時期が来る!と言うことを伝えることも重要です。心の準備をする期間ですね。
しばしば患者の抱えるトラブルは繰り返されることもあります。一度は消退していた症状が、再び痛み・腫れ・不快感などとして出現し、患者が来院した場合でも具体的な処置を行わないことすらもあります。再度話し合いを行うのです。前回の状態を振り返り、現在の状態を詳細に説明し、今度はどうするか、どうしたいかをよく議論をします。実現可能な患者要望であれば、できる限り対応しますし、実現が困難な(例えば抜歯以外には対応が提案できない状態など)患者要望であれば、率直に対応は難しいと伝えます。しかし、何もできないと単に絶望を与えるのみではなく、前述したこれまでの歴史を振り返り今生じている状態にもプラスの意味付けをしていくわけです。因果は変わらず、一度生じたトラブルは変えようのないものではあります。
しかし、今の状態をどのように捉えるか、物事の見方は変えられるはずです。口腔内の状態は確かに悪くなっている、もしかしたらもう手遅れかもしれない。でも、保存不可能な歯に対しても、これまでの苦労をねぎらい弔ってやることで患者の受ける精神的苦痛をわずかでも取り除きたいと考えます。
もちろん、わずかな調整だとか、義歯の調整、投薬などは都度行います。銀歯の除去、抜歯、歯を大幅に削るなどは慎重な対応を行ってます。
これまで、マイナスの事象、口腔疾患に対しての対応についてソウルケアの視点から述べてきました。
医療者側からの視点についても少し触れたいと思います。本来、医療のゴールは患者さんの治癒・機能回復など、介入前よりも良い状態を目指すものです。患者さん・ご家族・医療従事者かかわる人全てで共闘するものです。ですから、当然、医療介入により得られた結果はすべての人で共有すべきだと思っています。わたしは、できる限り良い結果も悪い結果も共有することを大切にしています。そして、良い結果は大いに喜びできるだけ広く共有します。特に多くの悩みを抱え来院し、不安を抱えながら通院してくれている患者さんには特別に、そのためだけの時間を割いてでも治った、良い方向に変化したという喜びを伝えています。
わたしはよく、我々医療従事者が行う治療行為はあくまで補助的位置づけであって、患者さん自身の治療への積極的取り組みが最も大切であると患者に指導しています。そして、良い結果が生まれた場合は、患者さん自身の努力が実を結んだことを大いに喜び患者にも強く伝えます。うれしい気持ちも伝えます。これが大切です。
「わたしの行う治療行為なんてものは、大したものはなくて、ここまでよくなったのはあなたの努力の賜物なんですよ。」と言うわけですね。
「われわれも、あなたがここまでよくなるお手伝いが出来て、そしてなにより、治療に対いてあなたがここまで努力し取り組んでくれたことがなによりうれしいです」と
良い変化を大いに喜び、スタッフ患者みんなで共有します。悪い結果に対するソウルケアのみでなく、良い結果を迎えたという幸福もみんなで共有し、良い価値観を生み出すんです。これも一種のソウルケアであると思います。患者さんの人生の時間の一部を歯科通院のために割いてもらい、自宅でも清掃指導を励行してきたわけですから、その苦労が実を結んだら大いによろこび、努力をねぎらいます。担当スタッフにも同席してもらい、共有するのです。この時間に価値がない、と言えますか。
ソウルケアの実践について書きます。まず大切なのは伝えかたです。チャンネルを合わせるという考えなんですが。
チャンネルとは難しく考えず、患者さんの目線、患者さんの持つ知識レベルに合わせて話を伝える、と言ってもいいですね。時には患者のもつ誤った歯科治療に対する認識もあると思います。その認識を正すべきなのかどうかすらも再考します。既存の価値観の再定義、ですね。誤ったままの患者の歯科知識を必ず正すべきでしょうか。そのままでいては問題が生じうるのでしょうか、そのままでいてもらうことはお互いにとって大きな障害となりうるのかを考えます。あるがままの患者さんを受け入れることも一つの方法かもししれない、と考えることは、これは我々に向けてのソウルケアでしょう。かならず患者さんを専門的知識、説明で説き伏せることなど必要ないのです。
過去と他人は変えられない、という言葉があります。その通りだなあと感じます。他人である患者さんを簡単に変えることはできないのです。ですから、患者さんの価値観・在り方を変えることができる!という強固な観念はあまりもたないほうが歯科医療従事者も健全にすごすことができるのではないでしょうか。他人は変えられない、のです。
また、想いは相手に届かなければ意味をなしません。自らの発信する情報、エネルギーは相手に届いて初めて形を表すのです。ですから、まず相手に届く形の表現であるかどうか、は慎重に吟味すべきです。具体的に言えば、相手の知識レベルを察知し、また患者の持つ価値観を知り、同じ目線、レベルで伝えるのがよいのです。最初からパターナリズム的に術者主導の治療を導入しようとしても患者さんの拒否感を強める結果になる危険が存在するだけです。まず相手の存在、価値観の受容、医院に対する期待、実現可能性などよく聴取すべきです。
この稿は精神論なので、特殊な技術等については一切触れていません。そして、患者さんと術者で紡ぎあげる歯科治療の形・ゴールは千差万別です。ですから、ニュアンス、言葉の温度感など文章にならない部分があります。
~いのり~
「祈りは医の理」(この言葉の発想は知人の歯科医師の教えによる)という言葉が浮かんできました。ただの語呂合わせなんですが、医療の真理は患者さんの抱える苦痛を開放してあげたいという祈りではないでしょうか。
祈り=医療の真理=医療の理=医の理です。
医療の根底、根源、大本は魔術師、祈祷師の祈りでした。
大昔、医療の未開の時代には、治療という概念はなく、「治ってほしい」「よくなるといいですね」という祈り、願いであったわけですね。現在は技術革新、研究により得られた知見など歯科医療従事者が手に取ることのできる武器は非常に強力ですし、多種存在します。しかし、その武器の威力は患者には理解されないことが非常に多いと感じます。多くの一般的な患者は歯科医師の技量を妥当性をもって評価することはできない場合が非常に多いです。医院のスタッフの対応、言葉遣い、など自分の中に存在するモノサシで歯科医院の良し悪しを判断します。
これはあくまで私見ではあると断ったうえで述べますけど、わたしの考える医療の根源は技術の提供、完全な治癒を目指すものではなくって、患者さんが自らの抱える疾患、それは治癒し得ない不可逆的疾患であってもですけど、それをあるがままに受け入れられる精神的素地を作ることにあると考えます。もちろん日々行われる多くの医学研究の大いなる素晴らしい価値を否定するものでは全くないですし、大いに価値を認めています。さまざまな技術の進歩も時代に合わせて行われるべきものでもあります。わたしは臨床の道に入ってから、座右の銘は「医は心」、「医は仁」と表現してきました。技術到達点のみを重視してしまうと、技術向上の追求が重要視されがちなんですが、多くの患者はそのような特別に洗練された、最先端の技術を求めているのでしょうか。ソウルケアをもとに対応した場合、わたしにとっては患者さんに最先端の技術を提供することは難しいのですが、(それ自体もごく一部の歯科医師が、相当の研鑽を重ねて習得しうるものですし)、患者さんの人生の苦悩を少しでも軽くできるのではないかなと感じているところです。
「求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞き届けられた」
この一説はあるネットの記述から発見したものですが、面白い言葉だなあと思いました。自分なりに解釈すると、ある人間の求めた物質的・即物的なものは手に入れられる、もしくは具現化はしなかったが、物そのものではなくそれを欲する人間の内面・精神の変化により、つまり求める側の人間の変化によりその願った価値はかなえられた、という解釈をしています。
歯は治る、またもとのように噛める状態になるであろう、と期待して来院する患者がほとんどなんですが、その願いが実現困難であることも少なくないんです。その時、それは患者にとって求めるものが手に入らないという状況だと思います。でも、そのことで絶望を与えることはないようにしたいんです。術者が患者とともにソウルケアを行い患者の求めるものの実現は困難である、という点から議論を始め、患者を主体として議論を行うなかで患者ー術者の価値観をすり合わせ、機能回復・形態回復が実現不可能であることを知りあるがままに受け入れる、そういった精神の変容を作り上げていきます。これは何か歯科処置を行って実現することではなく、現状を受け入れられる精神的素地を作るという精神的アプローチなんです。
突然案ですが、
仏教に、このような言葉があります「生老病死」という言葉です。仏教における根源的な苦、とされる。わたしはこの言葉がけっこう気に入ってまして、まあ、これが自然の摂理なのだなあ、と強く感じ生きているところです。
生 生きていること自体にともなう精神的肉体的苦痛
老 老いていくこと
病 様々な病気にかかり苦しむこと
死 死ぬことへの恐怖
他に愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦
これらを合わせて八苦と呼ぶそうですね。余談ですけど。
わたしは、常に治療にあたっても超自然的に考えるタイプなので、1歯科医師ごときが、「崇高なる人間の肉体」の抱える根源的苦悩である「病」を取り除くことなどできない、まあこう考えているわけです。で、こう考えていることをみんなと共有してくのです。だから、ソウルケア、なんです。虫歯、なんてものは実際にできてしまったら削るしかないわけですし。病をなくして原状回復は不可能なわけですね。でも少しでも捉え方を変えることで精神的苦痛を取り除きたい!とこう強く願います。人間は死に向かって生きるもんのなんです。
ここで一度筆をおきます。皆様の日常診療が安らであることを強く願っています。
最後に日々の診療を支えてくれているすべての関係者への感謝、健やかな人生を祈りさいごにします。
医の理ます
#ソウルケア
#歯科医師
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