見出し画像

不幸でありたいの

白が基調の待合室。観葉植物がたくさん。静かで、整っている。時間はピッタリと守られる。

時間になると、先生が部屋から出てきて、「どうぞ」と声をかけてくれる。ソファから立ち上がって部屋に向かうと、ドアの内側で先生が立って待っていてくれる。穏やかな声で「こんにちは。どうぞ」と招き入れてくれる。いつも。いつも同じ。

お父さんの部屋に特別に入れてもらったような、むずがゆさを感じながら、するりと部屋に入る。鞄を置く。ドアを静かに閉める先生を待って椅子に座る。「どう過ごしていましたか」

完璧なクリニック。すべてにおいて配慮がなされている。診察券はない。予約はオンラインでできる。クリニックからのメール連絡にクリニック名をいれていいかどうかも聞いてくれる。そして、いつも同じ。同じ空気、雰囲気。予約して受診まで3年かかった。大切な場所。

とりとめなく、いろんな話を聞いてもらう。先生はときおり相槌をうちながら穏やかに聞いてくださる。そして、必要な時に、言葉をくださる。しんと静まった水面に小石を投げるみたいな。同心円が広がっていく。きれいに広がっていく。このタイミングでなければ、この言葉でなくては。

そのきれいな円のさざ波が、私のこころというか、思考というか、何かを整える。てんでに散らばったものが、すっきりと何かに収まる。そんな感覚。

「だって、あなたは達成することを怖がってる」
「『好き』が『わがまま』に変換されるからね」
「他人のためなら頑張れるのに、自分のためには動けない」
「不幸でないとだめなの」

知ってた。10年くらい、ここのところが課題で、ここ数年は、自分のご機嫌を取ることができていると思ってた。不幸から、その構成要素を減らしていけていると思ってた。いまだに不幸がアイデンティティみたいになっているとしたら、不幸を取り除いたら、「私」はどこにいっちゃうのか?残るのか?

せいねんさーーーーん!!!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?