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【鎌倉探訪】お散歩準備体操第①

知的準備体操してから、いざ鎌倉?

 古都鎌倉は大好きな街で、何度も行ったことはある。が、せわしい観光巡りの域を超えていない。もっと深い体感ができる都市空間のはずなのに、自分は至らないと思う。何が至らないのか?すると、自分に鎌倉を味わうだけの教養が足りないのではないか、と思い至った。
 古都。魔力的な響き。そう、僕が勉強不足なんだ、とあっさり降参しよう。鎌倉散策を深く楽しむ為に必要な知的準備を探ってみる。

1.サマリー

(1)古都にしてSnobな鎌倉の成り立ち:
 ・栄光と放置と再生。雨ざらしの鎌倉大仏。

以降「鎌倉探訪(お散歩準備体操第②)」に掲載
(2)仏教観抜きの鎌倉散策はもったいない:
  ・仏教という世界観を通すと、もっと楽しめそう。
(3)鎌倉の建築、仏像、庭園を楽しむ:
 ・仏様に4階級?仏教世界観で文化遺産を楽しむ。
(4)鎌倉を歩く切り口を考える(まとめ):
 ・古都にしてSnobな鎌倉を味わう攻略ルートとは?

2.雑 感

(1)古都にしてSnobな鎌倉の成り立ち

 鎌倉の発展の出発点は何と言っても、征夷大将軍となった源頼朝がこの地に幕府を置いたことだろう。源氏の氏神とした鶴岡八幡宮から、南北に真っ直ぐに由比ヶ浜に続く若宮大路を参道として整備。なんと道幅30m、長さ2km。これが中世から800年以上続く都市鎌倉の背骨であろう。

①鎌倉時代
 三方を山で囲まれ一方を海に面する鎌倉は、古来要害の地で、政治軍事都市の一面を強く持つ。街の外縁の山あいに沿って、北の守りを建長寺、円覚寺らの大きな禅寺が固める。禅寺は修行と学問の拠点であるだけでなく、軍事拠点でもあった。

Google Mapで「鎌倉の禅寺」を検索。北部に集中

 鎌倉仏教が起こり、各々の宗派の寺院仏閣が建立され、宗教都市、大学都市としての一面も加わった。当時のお寺は、知恵と知識の集積地であり、いわば大学でもあった。宗派別に地域的な分布を見てみると、
 浄土教系の長谷寺や鎌倉大仏高徳院は西の市街にあるが、街の東側にも浄土系のお寺が集まっている。それにも増して、日蓮宗のお寺が目立つ。東側の市街を歩くと、軒を連ねるが如く現れる。日蓮と鎌倉は縁故が深い。立正安国論を書いた言われる安国論寺、身延山久遠寺から日蓮の遺骨を分骨した本覚寺がある。往時は両宗派は激しく対立していたはずだが、今日、混在共存している。

Google Mapで「浄土宗と日蓮宗のお寺」で検索

 また、街の東南端の海岸の沖には、宋との貿易港でもあった和賀江島が日本最古の築港遺跡として築かれ、貿易港としての一面も備えていた。今は満潮になると、海面下に隠れてしまい、のどかに相模湾が広がる。しかし、当時の鎌倉は、武家政権の政治経済の中心であり、そして軍事都市、鎌倉仏教の大学都市、中国とも繋がる港町でもあった。今の観光地鎌倉とはまた違う、とても活気ある多面的で多様な街であったに違いない。
 
②室町/戦国時代前期
 鎌倉幕府滅亡後は、足利幕府の関東公方所在地、鎌倉府として存続。それなりの隆盛を保っていたが、戦国時代前期に関東公方とその補佐をする管領上杉家が対立。関東公方は鎌倉から古河公方として移転してしまい、鎌倉は衰退する。

③戦国時代後期~江戸時代
 その後は200年以上、寂れた状態が続いたようだ。  鎌倉大仏も元々は高さ40mを越えたであろう大仏殿に安置されていたが、その大仏殿も1495年の明応の大地震による津波に流された。その後、再建されることもなく露天に放置され、以降「露坐の大仏」となる。
 ようやく江戸時代中期に徳川光圀編纂「新編鎌倉志」で名所旧跡が紹介され、庶民の行楽地として、鎌倉は賑わいを取り戻す。この江戸時代に創業した幾つかの老舗が現在も伝統を繋いでいる。今に誇る国宝鎌倉大仏もこの時期に修復された。鎌倉は江戸時代とコラボレートした文化都市と言える。

露坐の大仏、国宝鎌倉大仏。
仏像的には江戸時代のお顔との由。


④明治以降の近代
 明治に鎌倉は、時代に乗って更に変貌する。
・明治5年に新橋・横浜間に開業した鉄道は、僅か20年で東海道線、横須賀線として延伸。大船駅、鎌倉駅が設けられ、交通利便性が格段に向上。療養のための海水浴場や保養所が整備され、華族、富裕層の別荘のみならず、明治天皇の2人の皇女の為に鎌倉駅前に鎌倉御用邸(現在は御成小学校、鎌倉市役所)が建てられた。江戸時代の庶民の行楽地から、明治に東京郊外の高級リゾートのイメージを加えることになる。

・明治35年には江ノ電の藤沢・江ノ島間が開通。その後、鎌倉方面に延伸、僕が勝手名付けをする「江ノ電海岸通り」文化圏の礎となった。サザンオールスターズに象徴される湘南文化圏の東部を担う。他方で、しらすに代表される漁港世界も残る。時空を越えた多様性の融合。漫画スラムダンクで名所となった鎌倉高校駅の隣りの駅は腰越駅だが、少し歩くと、その前には漁港、その先には相模湾が青青と広がる。釣り船屋が並ぶのだが、大概食堂を兼業しており、しらすも旨いが、その日に上がる相模湾の地魚が滅茶うまい。明治と令和、避暑地と漁港、東洋と西洋が、違和感なく沿線に連続的に共存するのが、江ノ電海岸通りである。
 わずか10kmの沿線に15駅。地魚を活かした西洋料理店や古民家風のうなぎ屋も数多く点在する。かつて鎌倉文人たちが愛した老舗もある。1駅毎に表情が変わる豊かな沿線文化圏だ。

山あいを走る江ノ電。海は何処へやら。


・明治以降の鎌倉のブランド化が進み、多くの文化人も訪れるようになった。関東大震災以降は東京からさらに文士が流入し、文壇を形成。「鎌倉文士」と呼ばれるようになった。現在も鎌倉文士の精神の香りを残し、街にハイカラな雰囲気が漂っているように思う。
【明治以降の鎌倉ゆかりの文化人】
 ・夏目漱石、北大路魯山人、北原白秋、川端康成他
 ・養老孟司先生、建築家隈研吾氏も栄光学園卒業生

・郊外にも目を向けたい。関東大震災からの復興を契機に、高級住宅街の開発が企画された。鎌倉山である。現在も分譲当初に建てられた瀟洒な住宅や街路が残る。漫画美味しんぼの海原雄山のモデルとなった陶芸家、北大路魯山人も鎌倉山に移り住み、星岡窯を開いた。現在は陶芸家河村喜太郎氏が其中窯として再興、非公開だが往時の面影を残しているそうで、その陶芸体験が鎌倉市のふるさと納税の返礼品となっていた。

・横須賀線開通により東海道線と横須賀線が分岐する大船。鎌倉山に続き、田園都市構想が持ち上がったが、関東大震災と昭和恐慌で挫折。その後は、現在の鎌倉女子大学付近に松竹大船撮影所が置かれた。小津安二郎の名作、山田洋次監督の『男はつらいよ』シリーズもこの撮影所で撮られている。戦後には、東海道線の車窓からも見える高さ25mの大船観音が完成。周辺には玉縄の住宅街が広がり、栄光学園、清泉女学院がある。

・明治30年代に東京と神戸間の東海道本線が開通。大船駅の近くで現在「鯵の押寿し」などで知られる大船軒が日本初のサンドウィッチの駅弁を売り出した。当初は輸入ハムを使用したが、その後自家生産に切り替えた。葉山の御用邸に行かれる際、天皇家もこのサンドウィッチを購入。「天皇家も召し上がったサンドウィッチ」として有名に。その後、ハムだけの注文が増え、大船軒からハム製造部門を「鎌倉ハム富岡商会」として独立。つまり「鯵の押寿司」と「鎌倉ハム」は従兄弟関係にあるようだ。

 以上長々と書いてみたが、振り返ってみると、

・鎌倉時代から戦国時代にかけて武家政権の中心都市として発展。都市の骨格を形成し、文化遺産を蓄積。
・その後約200年の断絶があったが、その文化遺産を観光資源として活用、庶民の観光地として江戸時代に復活した。但し、鎌倉時代以来の伝統や行事は途絶えているように思う。
・明治時代、鉄道の発展により、華族、富裕層が流入、東京近郊の別荘地としてブランド化が進む。関東大震災以降は、東京から鎌倉文人を始めとした文化人が流入、ブランド価値が更に上昇した。
・戦後、焼き出された別荘族子弟の定住が進むとともに、進駐軍が自由なアメリカの西海岸文化を持ち込み、ここに湘南文化が発祥、鎌倉では主に江ノ電沿いに発展していく。

 こうして見ると、鎌倉は古都ではあるが、結構新しく、Snobな街かも知れない(笑)少し気が楽になる。

https://smtrc.jp/town-archives/city/kamakura/index.html

続きは、「鎌倉探訪(お散歩準備体操第②)」で。


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