感謝から始まる信仰

信仰とは何なのでしょうか?

現世利益があるから信仰を持つのでしょうか?言い換えると、何かメリットがあるから信仰を持つのでしょうか?

確かにそのように考える人もいるかと思いますし、そのような形式の信仰も存在するかと思います。でも、迫害にあって命を捨ててでも信仰を守った人々を考える時、現世利益だけでは説明できない信仰があると思います。たとえ「信仰」という同じラベルで語られるからといっても、前者と後者では指すものが全く違うように思います。私は、後者の信仰に関心があります。

それでは、救われるために信仰を持つというのはどうでしょうか?これは、決して現世でのメリットがなくとも、最終的に天国に行き救われるために信仰を持つということです。

私はこのようなタイプの信仰についても少し疑問があります。「自分が!自分が!」という自己中心的な信仰のように思います。神と人間の関係においては、自己中心的というのは人間中心的とも言え、神不在の信仰のように感じます。

また、救われるために信仰を持つという考えから、信仰を持たない者は救われないということが強調されることもあります。これは、個人的には恐怖を感じますし、そのような恐怖心を除去するために信仰を持つというプロセスには違和感を覚えます。

さらに、救われるために信仰を持つという考え方は、イエスの十字架の意味を矮小化するものだと思います。イエスの十字架はまさに全人類の救済事業であったはずです。全ての人を救うための十字架であったはずです。それは大きな恵みとして全人類に無条件に与えられたものです。

恵みを心に留める時、自然と感謝の気持ちが生まれるように思います。少なくとも私はそうです。自分が頼んだり、努力して得たりしたわけではないのに、既に恵みがプレゼントとして与えられているのです。

誰かからプレゼントをもらったらお返しをしたいと思いませんか?せっかくお返しをするのなら、その人が喜ぶようにその人のことをもっと知りたいと思いませんか?その人のことが少しでもわかったら、その人が喜ぶお返しを少しでもしたいと思いませんか?

聖書の大きな役割は神が何を喜ばれるかを教えてくれることだと考えています。なので、感謝を示すための行動の指針を聖書は与えてくれると思います。

私たちは既に最上のものを与えられています。さらに多くのものを欲しいと考える前に、与えられているものについて考え、感謝するために時間を使っても良いと思います。

信仰とは感謝から始まり、感謝を表し続けることだと思います。

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