優生思想について
優生思想と人間の価値
人に優劣をつけ、「劣った」とされる人を切り捨てる考え方は優生思想と呼ばれます。また、優生学(eugenics)とあたかも学問のように語られることもあります。
優生思想を示す歴史的事実としてナチスドイツのT4作戦が知られます。T4作戦の下、多くの障害者が安楽死させられました。当時は「生きるに値しない命」という言葉がスローガンとして用いられていたと言われます。
このような優生思想は過去のものなのでしょうか?現代の日本社会に生きる私たちには無関係なことなのでしょうか?
決してそうではありません。2016年に起きた「やまゆり園」事件の動機として、加害者の優生思想が指摘されています。昨年には、タレントのDaiGo氏が「ホームレスの命はどうでもいい」と言う発言をしています。
このような優生思想は「人の価値を人が決められる」という想定に基づいていると思います(cf. 「生きるに値しない命」)。この想定は端的に言って誤りです。
神との関係における人間の価値
神を陶工にたとえるならば、私たち自身は粘土に過ぎません。粘土が他の粘土の価値を決めることなどできず、人間はそれほどまでに小さな存在です。これは「謙虚になりなさい」という説教ではなく、自分自身を省みれば、人間の小ささを事実として認めざるをえないということです。
一方で、陶工である神によって、粘土は陶器に作り替えられているのです。その意味において、私たちは誰もが神の作品なのです。だからこそ、全ての人は価値が認められ、神に愛されている存在なのです。神が愛している存在を誰も貶めることなどできないはずです。
矛盾しているようにも思える人間の価値の小ささと大きさは、神との関係においては整合性のあるものです。取るに足らない存在である私たちを神は心から愛してくださり、神の愛によって私たちの価値は計り知れないものとなるのです。
与えられた能力を活かしてこの世に貢献することは素晴らしいことです(マタイによる福音書 25:14-30)。しかし、この世に貢献できているのかを判断するのは人ではなく、神です。神の大きな計画にあって、他者を「この世に貢献できていない」などと判断することは誰もできないはずです。私たちが持っているモノサシは私たちの認識によって制限を受けていますが、私たちの認識を超えたところに神のモノサシがあるからです。
さいごに
「全ての人は認められ、許され、愛されている」という事実を伝えるために自分の人生を使いたいと私は思っています。この事実を伝えることによって、優生思想という考えがこの世からなくなることを願っています。
追記(2022年7月17日)
2022年7月3日のNHK日曜討論における立花氏の「質の悪い子どもを増やしてはダメ」発言に抗議します。
サラブレットのたとえを立花氏はされていますが、競走馬には「速さ」という絶対的な基準がある一方で、人間においては絶対的な基準がないことからこのたとえは不適切であると考えます。目まぐるしく変化する現代社会において何らかの基準を子どもに対して設定することは不適切だと思います。関連して納税について言及されていますが、20年前にはなかったような仕事が現在にはたくさんあります(例. 20年前には、プロゲーマーという職業はなかったでしょう)。現在の基準から20年後に通用する「稼げる能力」を予測できるとは思えません。
また、プロ野球選手のたとえも立花氏はされています。プロ野球選手は人間であり、野球の能力以外も含めた人格を有する存在です。人格を含めた命の問題と能力の問題を意図的に混同させる論法には同意できません。仮に人間が能力を測る基準を作ることができたとしても(この仮定自体が極めて怪しいものですが)、命の問題に人間の基準を持ち込むことは誤りであると考えます。